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カテゴリ:軟弱日本を斬る!
巷は、忘年会の季節になりつつあるが、パワハラの温床といわれた忘年会が、若者に嫌われているのは、時代の転換期なのがわかり、自分が若者であったときに、周囲の空気を読まされて、とても、忘年会不参加を言葉にできなかった無念を思いだす。日本の職場に、飲み会行事が多いのは酒を売るための戦略なのかもしれない。アルコール禁止にすれば飲み会は少しでもなくなったかもしれない。
忘年会は仕事の延長と割り切って参加するしかなかったが、独りが好きな自分の経験からいえば、忘年会は酔った者勝ちで、その場の雰囲気を記憶からなるべく消し去り、とてもシラフで過ごす気にはなれず、忘年会で羽目を外したフリをしても、人間関係において、少なからず後で禍根を残すのがまた難儀だった。特に上下関係が厳格な忘年会はパワハラ、セクハラの温床と言ってよいだろう。 仕事の延長の、会社行事の忘年会はなくすべき、というような事を書くと、忘年会に無知と非難を受けかねないが、そもそも忘年会の「年」とは、陽明学者の安岡正篤氏によれば、その年ではなく、本来は、年齢の、「歳」のことであるらしい。つまり、上下関係を忘れて、人間本来の、精神的な付き合いを求める会合なんである。西洋風にいえば、キリストの最後の晩餐のような師弟の関係を度外視した、師が弟子になるような逆転の発想の、この世の肉体とは無関係の、魂でのカルマの付き合いなのである。 社会的関係を度外視した、上下関係のない、霊魂での付き合いなので、精神的な意味の、スピリットと呼ばれる、アルコールを摂取して、この世の関係を一時的に断ち切るいわば禊の行事なんである。だから、この世での関係を云々し、あれこれ言及するような会合では、全くないわけで、だから若者は、この世での経験が少ないので、忘年会が嫌いになるのは当然の成り行きといえるかもしれない。しかし、現在は禊の意味も、悪事を誤魔化し、白紙に戻る意味や、定期的な反権力の出る杭を打つような、上下関係を強いるための通過行事で使われている、のもまた現代人の大きな間違いなんである。 この世での先輩の経験談よりも、帰って寝て、睡眠中に、明日の出来事の予定を、天使たちからアドバイスされるほうが、若者の人生にとっては精神的な糧になるのが、人智学から解き明かされるわけでもある。しかし、なかには、忘年会で、嫌な先輩とも付き合い学ぶ経験が必要な人もいるので、そのような人は忘年会に参加するように仕向けられるが、忘年会でなくても、そのような嫌な先輩が、過去の自分の前世であるかもしれないので、必ず、そのような経験をするように導かれる。 いずれにしろ、現代では、本来の意味とは逆で、上下関係を強い、確認させる行事となっているので、パワハラ、セクハラを生じさせやすく、唯物論に染まった忘年会は、霊魂の、精神的な付き合いとは真逆なので、無くすに越したことはないだろう。トラウマや、アルコール依存症になったりするのは害悪でしかない。会合というのは、この世での利害関係を抜きにした、精神的な感性で付き合うべきものだからである。 ある意味、コロナで中止になったのは、現代の若者への霊魂の救いだったのかもしれない。物欲に塗れた地獄行きの連中を少しでも救済するための、かつてのソドムとゴモラへの神の一撃だったのかもしれない。コロナによって大きく損失を被ったのが、拝金主義国家や企業なのが明らかになってきているからである。とにかく物質的な利害関係を断つのが、本来の霊性への回帰、アクエリアスへの水星への精神的進化向上なのである。 本来は、パワハラ、セクハラとは無縁な、精神的な付き合い、純粋にカルマのつきあいの、例えば、千宗易の、一期一会のつきあい、キリストの最後の晩餐のような、霊魂の付き合いであるべきである。時代の変化に応じて、忘年会を再考する必要はあるだろう。いっそのこと、家庭人は家庭に帰り、独身だけの婚活の会合にしてはいかがだろうか? とにかくもパワハラやセクハラを無くすには、権力からの解放が先決である。 忘・新年会「実施予定率」は54.4% 企業の「忘年会離れ」が顕著 | TSRデータインサイト | 東京商工リサーチ パワハラ問題といえば、巷は兵庫県知事選の大騒ぎで、ネットフーテンの寅さんをしていると、マスゴミの流す嘘情報を鵜呑みにしている人が、いまだにいるのに、気づかされて驚くのだが、物事には必ず、表と裏があるので、情報については裏とりをしないといけない。なぜそのような情報を流すのか、流す真意を探らない、といけない。 巷の、誰が呼んだかわからねど、マスコミは、カネをもらって大量のゴミ情報を流すので、マスゴミとされているのだが、そもそも、カネをもらって流す情報が偏らないわけがなく、カネを出した連中に媚を売るために、権力の利権にありつくために、そのような連中の権力の番犬にならざるを得ないわけなんである。 権力を監視する、なんていう標語こそが噓八百なのは、欧米の偽ユダヤ連中の資本の番犬になっていることでも、明らかなんである。マスコミの歴史ぐらい勉強すべきであろう。欧米の情報は、英字紙をそのまま日本語に訳しただけという噂もあり、ネット社会のいまでは、高校生でもできるわけで、それでカネをもらっているのであれば、どこにジャーナリズムがあるといえるのだろうか? そもそも、カネは信用の上に成り立つ貨幣だが、信頼を売るのではなく、そのカネでもって信頼をなくすような不正行為を働いているのだから、本当のジャーナリストは、ボランティアで行うべきなんである。生活費は別の仕事で稼げばよい。だから、宗教家になるべきといえるかもしれない。SMSでの広告料を貰わない活動のほうが、事実に近いとはいえるかもしれないが、はじめは無料でも詐欺メールのような、怪しい宗教団体などに取り込む活動がウヨウヨサヨサヨしているから、注意が必要である。 マスゴミなどは、詐欺メールが有料化したようなもので、例えば、あれほど消費税導入で大騒ぎしたマスコミが、消費税軽減税率を受けているのは、生活必需品という名目らしいが、実際には、現代の若者の生活にはマスゴミこそ不必要だろう。マスゴミが新聞は必要だと捲し立てるほど、実際に、若者の生活に不必要なのが明らかなのは、大谷選手から出禁を食らっている現状や、有名人の個人情報保護も守れない権力の犬であるのを証明している。 この世に染まらない、純粋な若者の感覚からすれば、ウソヒ、ゴミ売り、惨系、売日などのマスゴミの実態がある程度わかってくるわけなんで、その源流は、欧米にあり、偽ユダヤを発端とするのは、サヨ、ウヨ、コミニスト、リベラルなどの言葉の源流をつくったのが、この連中であるのがわかるはずである。 「メディアの権力監視」,日本は最低評価|NHK放送文化研究所 「第四の権力」とは?メディアの役割やSNS時代の変化を解説 | スマート選挙ブログ 連中はキリストのローマ時代に、キリストを十字架刑に処すために、エッセネ派を貶めるために、情報工作したルシファーの子孫で、ベルゼバブの孫たちなのである。言論は権力による暴力であり、そこに資本が加わると、物質力を形成し、勢力となる。だから、物質力には、物質で対抗するのではなく、精神力の道徳で対抗しなさいと、キリストは説いたのである。そうすれば、聖書を読み解くことで、真の言論の自由が実現するだろう。物質的な暴力ではなく、神の精神力で、カルマの力を使いなさい、というわけなんである。 悪魔はこの世の、物質界の存在ではなく、それに権力を与えているのは、人間の欲望で、悪魔はただ善悪の実(権力)を食べるといいよ、と人間の欲望に囁いているだけなんである。だからマスゴミは人間の欲望を刺激する大量のゴミを流すのを生活の糧にしている、いわば悪魔の手下なのである。だから、この世の物質界しか信じられずに、あの世や輪廻転生を否定する。しかし、その否定する言論そのものが、この世の物質性に負っているので、それはいずれ崩壊し、死すべき存在にある。 カネにより魂を買われたものは、カネを失うことで、死を迎え、滅びる。物質的な快楽は一時的なもので、永遠ではなく、人間のつくった法は破れ、神のつくった法は破れずに、破れば、自らが滅び、悪の嘘は、神の善により滅ぼされるのが、神のカルマなのである。杜甫は、国破れて山河在り、と詩をつくったが、人間がつくる秩序は滅び、神のつくる秩序は破れないという意味を詩で示した。 人間のつくる法は、自分たちに都合よく権力のためにつくるので、いずれ論争、闘争、戦争になって、全てを失う。全体をみないというか、みれない、物質的な一面だけを誇張した情報は、必ず無に帰する。だから、従うなら、神の法の、カルマに従いなさい、というわけなんである。人間のつくる法を破って罪を逃れても、神のつくる法は破れずに、必ず罪は自分に報いとなって帰ってくる、次の転生を送るようになる。 神の法の道徳に従って生きていさえすれば、日常の経験と知識から、嘘情報のデマを流す目的、権力の臭いを感じ取れて、事実に到達することがある。嘘やデマは、情報工作のために流すのだから、その逆に事実がある。それに嘘には賞味期限というか、いずれバレるので、マトモに受け取らない、受け流すのがよいだろう。人間は必ず間違えるので、できるだけ間違えないように、嘘や判断はデマが明らかになってから、判断するのが望ましい。 ここにも、キリストのバランスの、右の頬を打つなら、左の頬も指しだせ、で、権力とは戦わずに、受け流すのが返って自分を生かすのがわかる。悪の権力と戦うのは、悪を認めることになるからである。だから、マスコミが流す権力側に都合のよい情報は、マトモに受け取らずに、受け流すべきである。コメンテーターや評論家はディレクターのシナリオに沿って好きなこといってるけど、一体、いくらもらっているのかな?という感じで、聞き流すのがよいだろう。 発言と同時に年収も公開すると、その発言の信頼性が失われるだろう。マスゴミの賃金が平均よりはかなり高いのは有名である。特にいま巷を賑わせている物価に合わせて基礎控除を上げる政策に反対している県知事の年収や財務官僚の年収なども公開すべきだろう。年収を半分にカットした斎藤知事のほうが、減収で国民に文句を言っている県知事たちよりも、少なくとも潔さを感じるのは自分だけだろうか? というのも、マスコミは、一部分を切り取って、誇張して、自分たちに都合よく、恣意的に流すので、マトモに受け取れば馬鹿をみるだけだからである。一部を誇張して、それしかみれなくなると、その嘘情報に、洗脳されてしまう。物質界だけの一地域の、一部の発言だけで、行動すれば、そのツケを、今度は自分で払わないといけなくなり、詐欺に騙される。騙されてから気づくのではなく、騙される前に気づくべきで、そのような権力の流す情報には、一方の頬だけではダメで、他方の頬を向けるわけなんである。 世の中は、善と悪のバランスで成り立っているからである。人間には、悪を善に転化できる能力が神より与えられているので、その能力を開発することである。特に日本のマスゴミは、世界のジャーナリズムからも低評価で、騙すゴミともいわれている現状を、再確認すべきだろう。だから、マスゴミは何かを発表した後で、大阪人みたいに、「知らんけど」と付け足しすべきかもしれない。 このように、この世の出来事は、あの世の精神的な進化と結びついて、カルマのバランスをとって進化している。人智学では、個人だけでなく、全ての存在にカルマがある、といわれている。国にも、民族にも、時代にもある。流石に神様にはないだろうと思われるが、カルマをつくった神にもカルマがあり、それは悪をつくったのが神なので、悪を上回る善を果たす責任がある。 自分が為したことは自分にかえってくる、自業自得が、宇宙が閉じている理由でもある。そして、そのバランスを司っているのが、宇宙の神であり、善から出た悪を善へと回帰し、バランスをとっているわけで、それは、実るほど頭が下がる稲穂かな、の言葉で表現されている。 蛇が尻尾を噛む夢のイメージから、ケクレはベンゼン環を発見したのは有名だが、どうして物質がそのような構造をとるのか、例えば、DNAがなぜ右巻き螺旋構造なのか?その答えは、このウロボロスの、上が下を支えるバランスの、カルマの宇宙の階層構造にある。 ウロボロス的陰陽五行思想 – 風水ライフデザインスクール(旧一般社団法人氣質診断士協会) この宇宙環ともいうべき、ミクロからマクロの円環の構造を、日本文化では、大和(やまと)と呼んでもいるが、そもそも、ヤマトとは、八の民で、ヤハウエの八百万(ヤオロズ)の民で、ヤハウエは、日本では八幡と呼ばれる。この古代史の話は、後で、八切史観の古代の八王朝として紹介したいが、このウロボロスの蛇が、マクロの宇宙全体が、ミクロの素粒子にまで反映され、その構造が、エメラルドタブレットの、エーテルと呼ばれている、コズミックダストの宇宙微粒子の実態といえるわけなんである。トートによれば、これは9次元体なので、非物質で、目には見えない暗黒のダークマターなんである。 そもそもエーテルは、有形ではなく、無限の液体の水のような存在なので、物質では解き明かせない代物なんである。シュタイナーは、電子は光の凝縮体で、電子には、宇宙の構造全体が記録されているという。だから、人間が、電子を意識すれば、その意識が、電子に反映し、人間の意図が、宇宙全体に伝わり、そのカルマに沿って、今度は人間の意識に、天使を通じて、潜在意識に届けられるわけで、いってみれば、人間は電子や光を通して、神と交信しているわけなんである。 だから、悪魔は人間の意識を誘惑し、洗脳し、神との交信を妨害している、ともいえるわけなんである。それはしばしば、権力により行われ、マスゴミは権力の犬なんである。 この全体像に到達すれば、本当の知性が、無知の知からわかるわけなんである。 さて、地上波では唯一のオカルト系番組といえる、「世界の何だコレ⁉ミステリー」はたまにみるのだが、ほとんど追及が甘く、中途半端に終わるので、オカルト系というよりは、都市伝説専門の「やりすぎ都市伝説」の方が、都市伝説に搦めたお笑いのオチで済ませる分、まだ遥かにマシにも思えてくるが、日本史のオカルトについては、某日本史番組の「歴史探偵」よりは若干マシかもしれない。 オカルトというと、このブログでも何度も紹介しているが、「秘密、秘教」の意味で、隠された古代叡智のことで、古代の秘教学院の秘教徒を指す。宗教的に言えば密教で、人智学でいえば、秘教参入学となるかもしれない。だから、オカルトとは、物質界での覚醒意識では捉えられない、言葉では表現できない、説明できない、叡智のことで、一般的には第六感や、霊能力、超能力のことを意味するわけなんである。言葉で表せないから、勿論、数学でも表記できないわけで、カオスの混沌の、非線形現象といえるかもしれない。だから日常を超えた、超常現象といわれている。 だから、オカルトは、物質界の経験からくる、日常の知識を超えた知識のことといえるかもしれない。そして、日常の知識がどのように獲得されてきたのか、日常の知識を超えた知識から、つまり無限から、有限を考える、有り体にいえば、ソクラテスの無知の知で、だから、古代ギリシアでは、数学的にも、言葉でも、無限を記述することを控えたわけで、無限の反対のゼロも記述しなかったわけなんである。 そういうわけで、オカルト番組といっても、日常の知識レベルの話なので、本来の意味でのオカルトでないわけで、都市伝説や、古代伝説と言った方がまだマシで、言葉で表現できれば、その現象は、オカルトではないので、物質界での謎解きという意味で、なんちゃってオカルトという感じかもしれない。 その物質界の謎解きの知識レベルで、なぜ、緑のグリーンを、日本では青というのか?という疑問を、上に紹介した疑似オカルト番組でやっていたのだが、それは、日本には、古くから、緑の色感覚が、青で表現されていたからで、現代人には緑にみえる信号を青信号というのは、言葉の表現の問題で、信号機が導入されたときの新聞記者の色感覚が、赤、黄、青と表現したせいである、という答えだった。つまり、昔の日本には、緑をみて表現する知識はなく、なんちゃって青しかなかったのである。 この背景には、日本人の色感覚の歴史があり、白と黒の二色からはじまり、赤と黄などが加わり、最近まで、緑が青と一緒に表現されていたようである。 日本語にはもともと「緑色」がなかった? 【ことばのふしぎ大冒険5】 - コクリコ|講談社 緑なのに青?日本語の不思議な色の呼び方 | オンライン日本語教室SuraPera 「緑」という言葉が出てきたのは平安時代末期から鎌倉時代初期(1100~1200年あたり)と言われています。 そのため、昔から日本では緑色の野菜や植物を青と呼ぶ習慣があったのです。 現在では「緑」は一般的な日本語になっているため、緑色のものは「青」ではなく「緑」と呼びます。このように、日本語を歴史から捉えると、青全体からの緑の独立が現代になってはじまったのがわかるが、それは、ある意味で、日本史が、勝者によって書かれ、民衆が知らずに、統一された日本語により洗脳されてきた証拠でもある。というのも、色の三原色が赤、青、黄なので、原色だけでほぼ表現できれば、他の色は必要なく、その派生にすぎないという観点にもあてはまるからである。だから、緑は、青と黄からつくられ、その混合色といえるわけなんである。 だから、日本史的にいえば、緑は、青に統合されていて、黄に染まって、青から独立した色ともいえるわけなんである。このように現代の疑問から、日本史を遡っていくと、かつての古代日本には、八の王朝が存在したという、このブログで度々紹介している、被差別民族史の八切説が浮上するのが面白い。 八切説では、中国大陸渡来の郭ムソウの藤原氏が律令体制による日本全国統一をなすまでの日本列島には、少なくとも八つの王朝が存在したと説く。例えば、「色」から日本史の源流を探ると、赤は平氏、白は源氏、黒は唐由来の藤原氏、黄は唐を滅ぼした契丹の橘氏などを表わすらしい。青は民族ではなく、青鬼のように、鬼は隠忍(おに)で、世間から隔離された被差別民らしい。 『日本古代史・純正日本史案内』八切止夫氏著 | 山梨県歴史文学館 山口素堂とともに - 楽天ブログ このような、裏の日本史の調査から、以前に、都道府県別の少子高齢化についてググっていたら、面白いことに、このブログでも度々紹介したYAP遺伝子解析に絡んで、ゲノムの一塩基多型(SNP)解析から、この古代の8つの王朝を遺伝子的にデータ補完する、以下のような縄文人説に遭遇した。 この〇で囲んでいる、一塩基多型(SNP)解析によるグループマッピングから、8つの地域に大まかにわけられるのがわかる。日本人の遺伝子解析からの分類は、以下の縄文人説に詳しい。 学部生に伝える研究最前線 47都道府県の遺伝的地域差 - 東京大学 大学院理学系研究科・理学部 渡来人、四国に多かった? ゲノムが明かす日本人ルーツ 日経サイエンス - 日本経済新聞 “最初の日本人”縄文人の「親戚」が東南アジアのタイの密林にいた 「古代DNA解析」が明らかにした新事実とは? | NHK 日本人の祖先は「港川人」? 旧石器時代、DNAで解析:朝日新聞デジタル 以前、このブログでも紹介した都道府県別の少子高齢化の図と比較すると、沖縄の出生率が高く、北海道が低いのが、上に紹介した縄文人説の、遺伝子多型からもわかるわけなんである。つまり、端的いえば、縄文人に近いほど出生率が高い、というわけなんである。というのは、渡来系ではなく、沖縄を日本列島にするかどうかは政治的、地政学な議論となるが、九州地方が縄文人に近いことから、定住系が、日本原住民で、純粋な日本人といえるわけなんである。 ひょっとしたら、沖縄の出生率が高いのは、縄文人に近い為で、縄文人は、その土地に適合するための星の位置、天空の配位に適合して、生まれてくるのかもしれない。 だから、出生率を上げるためには、現代の日本文化が一体どちらの色を濃くするのか、八切史観の被差別民史を解明するのがいま必要なのではないだろうか? そして、元は琉球人であった沖縄人と、現代の日本人との、民族のカルマのなかに、未来の日本文化や日本人の宿命を読み取れるのではないだろうか? 再びシュタイナーの職業のカルマと未来を紹介する。 ★ ★ ★ シュタイナーの和訳本は色々出ているが、ほとんどが丁寧な直訳なので、読みにくく、意訳は少ないので、思い切って、以下に意訳して紹介する。本当は、ドイツ語原文を読むべきだが、日本人にとってはドイツ語は敷居が高く、そのまま和訳すると、しばしば表現が堅苦しく、回りくどいので、和訳本を基に、人智学の理念から、意訳する次第なんである。 人生の宿命と立命 物質体は人生の宿命を設定する。自我は人生の宿命を改変し、前世からのカルマを解消し、新しくつくりなおし、来世へと立命する。だから、物質体と自我による相互作用のなかに、個人以外の、他のカルマの流れが、人生に介入する。人生のなかには、個人を、宿命からくる状態に保とうとする力と、そこから解放しようとする力が働く。 まとめると、物質体⇒宿命を設定する、エーテル体⇒宿命を保つ、アストラル体⇒宿命をつくりかえる、自我⇒来世へと立命し、運命として運ぶ。 まず、物質体と自我が相互に作用するが、次第に、4つの体が共鳴し、多様な波動をつくり、共同に働く。前世のカルマに従って、新しい人と関係を結ぶのは、物質体と自我の相互作用による。それは前世のカルマの解消のためである。だから、物質体がその舞台をつくり、自我がその舞台で愛を演じる。愛を演じるための、仕事や職業については、エーテル体とアストラル体の相互作用によっている。 遺伝(前世のカルマからの宿命) 前世からの宿命が、物質体をつくるのが、人智学から明らかになるが、それが具体的に、実生活の仕事、職業にどう影響するのか、職業のカルマとして、考察してみる。人間が、地上の生活、職業の上で成し遂げる功績を、単なる唯物的なただ一回切りの人生としてポエムにしてしまうには、あまりにも陳腐である。 人智学のカルマ論は、ただ一回切りの人生の、その功績が、将来の人間社会や宇宙全体の進化に寄与できるのを、明らかにしている。人間の生活は、地上の物質的な社会秩序のなかに組み込まれ、前世からの課題に応じて、なんらかの職業に向かう。 人間は地上で、物質的な社会秩序による生活を営み、物質的に地球に貢献するだけでなく、地球を次の木星紀、金星紀、ウルカヌス紀へと進化させるためにも、働き、貢献する。このような全体像から、人間の職業を読み解かねばならない。 人智学は、単なる美しい理論だけを伝承するだけでなく、時代霊により導かれる時代の精神にあわせて、実際に、個人の霊魂を進化に導くという課題をもっている。だから、人智学により読み解かれる霊的な真理は、個人の前世から実生活に訪れる試練に対しても役立つような判断を提供できる。人智学から独善的な理論に陥るのではなく、実生活を通して、未来への進化のための、新しい経験の糧として、来世へと立命できる自我を霊我へと改める反省材料を提供したい。 人智学を深く学べば、単なる表面上の霊的知識ではなく、物質的な、実生活にも意味がある知識を与えるのがわかるはずである。人智学は、実生活の真実を提示してきたし、現代の学者たちが無知の知を理解できるなら、近い将来に、高次の知性に到達できるような、かつての秘儀参入学と呼べるような学問体系、哲学を獲得できるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2024年11月20日 11時30分07秒
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