最初は少しずつ傍らに読むつもりだったのだが、読み始めるとたちまち続きがきになって読み進み、ノンストップのまま、ようやく「夢の浮橋」まで読み終えた。光源氏の本編では文章の流麗さや人物描写の鋭さに目を見張ったが、宇治十帖になると、本当にこれが1000年も前の小説なのかと驚く。この時代には素朴な英雄譚や伝奇物語が主流で近代小説がうまれるのははるか後のことだ。ところが宇治十帖では薫、匂宮、大君、中君、浮舟という五人の男女の心理が丁寧に描かれ、父八宮の死、大君の死、浮舟の登場と出来事が巻ごとに進行し、今の小説といってもよい趣がある。特に入水した浮舟の蘇生後を描いた「手習」の巻はそれだけでも独立した物語となっており、浮舟に想いをよせる中将、亡き娘がわりに浮舟を慈しむ尼君、天下の高僧として名高い僧都などが登場し、その中で、浮舟の出家の顛末がえがかれる。高度な文学的な鑑賞というのとは違うのだが、こうした物語はなんとなく既視感がある。中将の視点でみたらどうだろうか。亡き妻が忘れられずに妻の母である尼君をときおり訪ねている男がいる。その尼君の住む山里でふと美しい女を見かけ、彼女が忘れられなくなる。女は記憶を失っている様子で、どこの誰ともわからない。こうした物語はハッピーエンドにしろそうでないにしろ、今日でもドラマなどでよくあるのではないか。
それにしても、この時代の出家とはどういう意味をもつのだろうか。源氏物語には出家する登場人物が多いし、その背景の事情もさまざまである。祈祷とか加持が、今の医療のような役割を期待されていた面もあるし、寺詣でが御利益を期待してという面もある。それとは別に、この世の苦しさを逃れる手段としての出家というのもあった。この世での栄華や幸せをあきらめるのと引き換えに後世の幸福を祈って出家し、精神の平安を得るのである。浮舟の身にしてみればいまさら世にでるわけにもゆかず、出家というのはしかたない選択だったのだろう。それにしても、出家後も兄弟と思ってほしい、後の生活の世話もしたい…と言う中将は誠実な男であり、浮舟も最初からこうした人に出あっていれば幸福になっていたのかもしれない。