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カテゴリ:読んだ本
「菊枕 ぬい女略歴」を読んだ。短編なのだが、読んでいて非常に重苦しい。女主人公ぬいに実在のモデルがいるということだけでなく、俳句の世界ということを別にしても、主人公の苦悩が、非常にありそうなものに思えるからである。ぬいはお茶の水女子高等師範付属女学校を卒業した才媛で、男並みの長身という女性にとっての難点を別にすれば際立っての美貌と文才にも恵まれていた。実際にモデルとなった女流俳人の写真をみても相当な美貌である。そして彼女は降るような縁談の中から美術学校出の青年を結婚相手に選ぶ。彼女が結婚相手に期待したのは「芸術家」であった。しかし、夫は田舎の中学校の美術教師になり、それで満足している。そういう結婚についての錯誤、夫への不満というのは、男から見ると身勝手であっても女性には時折ある。結婚前は男は自分の才能や将来性について多少盛ることがある。ぬいの夫も結婚前はもっともらしい芸術論をはき、それをぬいはうっとりと聞いていたのではないか。ぬいも後年俳人になるくらいなので、芸術的志向はある。 田舎の美術教師の妻となったぬいは俳句を始め、頭角を現すことで、彼女にも新しい世界が開けるようにみえた。しかし、雑誌に自分の句が掲載されたところで、それだけで収入になるものでもない。俳人の多くは別に社会的地位のある職業についたり、そうした者の妻であったりする。俳句関係の交友が増えるにつれ、ぬいはますます「田舎の中学教師の妻」という身分に引け目を感じるようになる。今はそうしたことがどの程度あるのか知れないが、当時は夫の地位イコール妻の地位であった。ぬいが俳檀の巨匠にストーカーのようにつきまとったのも、巨匠を通じて自分に大きな世界が開けることを期待したのかもしれないが、それも拒絶される。表題の菊枕は菊の花をつめた枕を使うと無病長寿であるとされ、ぬいが師匠のために心をこめて菊枕を作るというエピソードによる。その後、ぬいは句作も衰え、精神を病んでなくなるのだが、このあたりはどこまでがモデルの実像で、どこまでが創作なのだろうか。 ぬいは句想を得るために英彦山によく登っていたというのであるが、絵や写真と違い、俳句には元になるものがない。いくら山をみても山の俳句が浮かぶわけはない。一度、俳句で名声を得た人がそれを維持するというのはかなり大変なことのように思う。 さて、一読してみると、この小説の主人公はぬいの夫の圭介ではないのか。俳句の会や旅行に行くぬいを経済的に支え、家事を行わないことにも文句もいわず、最後にぬいが夫のための菊枕を作ると、ようやくぬいが自分の下に戻ってきたとよろこぶ。妻の期待するような芸術家になれなかった夫の負い目かもしれないし、一種の嗜虐的な喜びかもしれない。こういう夫婦も世間のどこかにはいるのだろうか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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天地 はるなさんへ
どうもありがとうございます。 面白いけど…読んでいて辛いですね。 ぬいの夫への失望、そして自分はもっと光の当たる場所にいるべきだという焦燥、そのための綱となる師匠からの拒絶。身勝手と言えば身勝手なのですが、気持ちは分かります。それに比べて夫の献身的なこと。 作者にいわせれば名前も変えてあるし、モデルの句も引用していない。何が文句があるかなのでしょうけど、遺族は怒るでしょうね。 菊枕や狂気の部分はフィクションなのではないかと思います。 (2024年05月09日 16時58分46秒)
清張と云えばまず頭に浮かぶのは「点と線」「ゼロの焦点」「砂の器」「日本の黒い霧」(下山事件他)」、「帝銀事件」、加えて「張り込み」「天城越え」「凶器」「地方紙を買う女」などの珠玉の短編群で、高校時代に夢中で読み漁り、その後映画でも見て、私の記憶に深く沈潜している気がします。
犯罪を犯す人間の心理は時代を越えて普遍ですが、時代背景、犯罪手法には昭和は昭和の時代を強く感じさせられます。 現在人が最も気を付けるべきは、衝動的に人を殺してはならないという事です。 そして大事なことは、怒りが蓄積しないように、人の迷惑にならないように日々発散することです。元来、人は人を愛さずにはいられない社会的生き物なのです。 掲題、夫婦の中、男女の中についていえば、相手を自分の所有物と思わない事が要諦です。男女の前に、人は一人ひとり、自立すべきであり、大事なことは、相手に依存しない事です。 相手を自分の所有物と思わない事、相手に依存しない事の要諦は、相手を一個の自立した人間として先ず受容する事です。 (2024年05月11日 08時46分22秒)
・曙光さんへ
松本清張の人物はどこにでもいそうな人間で、そうした人々が犯す犯罪行為も日常生活と地続きにあるような怖さを感じます。まあ、個人的好みですが、長編よりも短編に傑作が多いように思います。「地方紙を買う女」もよいし、「鉢植えを買う女」も傑作です。 (2024年05月12日 07時30分03秒) |