混同されがちなのだが、「リベラル」と「左翼」は違う。これは急進的か穏健かといった差異ではなく、リベラルは文字どおり自由が語源で伝統的権威的思考からの自由を意味し、左翼はもともとは社会主義的共産主義的思想により平等な理想社会を目指す考え方を意味した。社会主義や共産主義は宗教を「人民の阿片」とよんで攻撃し無神論をとなえたので、ある時期のある社会では、この二つは重なり合っていたのだが、本来は価値観も目指すところも違う。
それに左翼については、21世紀も4分の1過ぎた現在、いまさら地主や工場主を倒してその財産を国有化すれば究極の平等な理想社会が出現するなんて考えている人はほとんどいないのではないか。今日的な意味では、格差の少ないより平等な社会を目指すのが左翼ということになるのだろうが、福祉政策や労働政策、税制の応能負担などを全く否定する考え方もないので、そのあたりにどのくらい重点をおくかという違いになる。理想としては政体は民主主義で格差の少ない福祉社会が目指す方向なのだろうけど、現実的にそれはどこまで可能なのだろうか。
次にリベラルであるが、伝統的権威的思考が宗教的なものだったらわかりやすい。中絶や同性愛を罪悪視する宗教があれば、中絶の自由やLGBT差別反対はリベラルの大きな旗になる。しかし、日本の場合には認められる中絶の範囲は広いし、LGBTも多くの人の感覚では好きにすればといったところではないか。同性愛を罪悪と考える伝統は日本にはない。だとしたら日本のリベラルはいったい何と戦うのか。そこで敵と想定したのが日本の伝統的家父長制的思考なのだろう。そうした流れで日本のリベラルは声高にジェンダー平等や選択的夫婦別姓を主張する。あとは憲法九条…。しかし、現実には、伝統的家父長制的思考は現代では影が薄くなっているし、財界から選択的夫婦別姓の制度化の要望がでてきているのもむべなるかなである。
こんなわけでリベラルと左翼は別の概念である。だから、経済的弱者の利益を代表するのがリベラルとは必ずしもいえない。いくつかの先進国では移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力が支持を得ている。こうした勢力の支持層は貧困層が多いので、富裕なマスコミ人士は批判的に報道する。しかし、移民に職を奪われたり、労働条件が低下したりして窮地に陥るのは貧困層であるし、治安の悪化も貧困層や恵まれない人々を直撃する。移民への寛容を唱えるマスコミ人士の隣人には食い詰めてやってきた移民はいないだろう。それにリベラルは伝統的宗教的権威からの自由を主張するが、満ち足りて教養のある人ほど宗教とは縁がなく、逆もまたしかりである。移民排斥や移民の制限を唱える政治勢力を極右とよんでいるが、貧困層の利益を反映した主張という意味ではこうしたものこそが実は「左翼」なのではないのだろうか。