機会の平等と国立大学の役割
現政権では機会の平等や貧困の連鎖をたちきるための教育の無償化の議論がさかんに行われている。けれどもその一方で国立大学の文科系学部の削減や国立大学そのものの再編の動きもあるのだという。よく考えると、これはおかしな話だ。かなり昔の話だが従兄が地元国立大と東京の私立大とに合格して、かなり壮絶な親の反対をおしきって東京の私大に進学したことがあった。その頃は東京のキャンパスライフに憧れる従兄の気持ちが分かる気がしたが、今では伯父の気持ちの方がよくわかる。当時は国立と私立とでは学費が全く違っており、その上、下宿か自宅かでもかかる費用が違う。従兄は幸か不幸か東京の私大に進学できたが、家庭の事情で地元の国立大学しか選択肢がないという人もいるだろうし、その中には相当の俊英もいるかもしれない。昔も、そして今も、経済的事情には恵まれないが優れた能力を持つ者に機会を与えることは地方国立大学の大きな存在意義なのではないのだろうか。そうだとしたら、どうみても序列化としか思えない三分類やそれによる補助金の差異などは、こうした存在意義に逆行しているとしか思えない。まあ、三分類というのは世界最高水準の研究を行う大学、特定の分野で世界的な教育水準を有する大学、地域貢献型の大学というのだが、学生の質にこの三分類があてはまるわけではない。徳島大学は地域貢献型に分類されているが、この大学からノーベル賞学者がでている。地域に誇る頭脳が育ち世界に羽ばたいていけば、それこそ最高の地域貢献であろう。三分類にどんな意味があるのだろう。また、文系学部の縮減も、地元国立大学を選ばざるをえない学生にとっては痛手だ。法律や経済の科目は公務員試験や国家試験にむずびつく場合が多い。貧しくとも志を立ててそうした途を目指す若者にとっては地元国立大学にそうした学部があることが必須ではないか。機会の平等、もっとはっきりいえば貧家の秀才に機会を与えるというのなら、ばらまき奨学金よりも、国立大学の充実と授業料免除や学生寮の提供で十分なのではないか。もしかしたらそうしたものは今でも提供されているのかもしれないが…。子供の数が減っているというが大学は700もあり、大学進学率はさらに増えるという人もいる。信じられない話だ。米国で大学進学率が高いのは、かつての旧制高校のような教養教育を大学が担っており、しかも州立大学は入学が簡単で学費も安いという。韓国で大学進学率が高いのは日本の専門学校のような実利的な職業教育を担っているからだという。それを考えると日本の大学に進学することにどんな意味があるのだろうか。言いにくいことだが、日本の大学は偏差値によって序列づけられている。わざわざ高い授業料を払い、吸収力に富んだ時期を捧げ、自分はさほど勉強ができないという証明にしかならない卒業証書を貰うのは奇特というか物好きというか…。