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2004年02月19日
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渡辺一枝さんの「わたしのチベット紀行(集英社文庫)」を読んでいる。


私が子どもの頃から漠然とした思いで行ってみたいなあ、と思っているのはネパールなのだが、近隣の地ということでチベット、そしてモンゴルも同じように興味を持っている。


食文化も言葉も違うが、ひとつの源流をもとにした流れのなかにある地、というふうに私はこれらの場所を捉えているのだ。それは小学生の頃からである。


小学校の何年生だったか、今となっては覚えていないのだが、新宿の京王百貨店でネパール展をやっていた。そこでは大きな、豚のような鼻に目が3つある、というお面を被ってひらひらした衣装を纏い、鮮やかな回転を伴った踊りというのをやっていて、私はすっかり見惚れていた。


灰皿のような金属の皿状のものを、木琴を叩くスティック(なんというのだっけ)に似たものでてぃりりんと鳴らす。太鼓もあった。


しかしとにかく、それらの奏でるリズムというものがこれまで出会ったことのないもので、しかも今でも覚えているくらい、あっというまに身体に浸透してしまった。それにしても昔はこういうふうに、とても文化的なことをあちこちでまだやっていたのだ。


そして私のなかで、ある源流の流れのなかにあるチベットにもネパールと同じような興味をずっと持っている。


そのなかで買ったのが、この「わたしのチベット紀行」であった。


この本を読んでいると、チベットという場所がどういうところか、歴史的経緯というのも含めてわかってくる。私にとって興味がより増したのは、男と女に差というものはない、という点だ。


それは例えば家事については、どちらにしても手の空いた者がすればいい、ということであり、そこに「男だから、女だから」という考えはないのだそうだ。結婚についていえば、その結婚が幸せでなければ割と簡単に離婚し、あらたな幸せを探すのだという。まあそれにはちょっと引くところがあるけれど。


渡辺一枝さんの友人には5回もそれを繰り返した女性がいるそうだが、それも特別なことではない、という。


またそれらのことを含め、

「チベット人に、女性蔑視の思想はない。体よくその思想を包み隠すレディーファーストの習慣もない。人は人として対等な存在で、いや、命は命として等しく尊ぶ。」


と書いている。


ふーむ、と唸りつつ、それを周りも認める文化というのはなんだか先進諸国だなんて言っている国よりも、人という面においては遥かに進んでいるのではないか、という思いすらしてくる。


だがこの土地では、それは別に進んだカタチでもなんでもなく、ただ昔からそうなのだ。


男だ女だという前に、まず人としてありき。


そして彼女の友人であったジグメという人が、64歳で死んだとき、彼の言っていた言葉のなかに、私はハッとした。


    ◇


幾百ものバターランプが燃えて、その炎が揺れるさまは美しかった。日陰に座って眺めながら、ジグメのことを想っていた。


慎み深く無口だったジグメのことを。
彼の生きてきた六四年間の日々を思った。


その嵐のようだった日々の話を聞かせてほしい、辛酸を舐めた日々のことを話して、と私が乞うた時、彼は、


「憎しみや怒りでは、世の中は変えられない。あの頃のことを私は決して忘れないが、ひどい仕打ちに耐えることができたのも祈りのおかげだったと、あの頃を思い出すたびに私はそう考える。そして、また祈るんだよ」と言った。


   ◇


チベットの過酷な歴史のなかに、文化大革命というのがある。打たれ蹴られ、腰の骨までもを折られ、殴打がもとで視力を殆ど失う人もいた。死んだ人も大勢いた。


あの頃、というのはその文革を指す。


私はあの事件のとき、実行した組織の長を酷く憎み、うらんだ。あのとき目の前にいたらきっと、殴ったりだけでは済まなかっただろう、というのが正直な気持ちだ。


だがしかし、同時にそれでは何も解決しない、ということも感じていた。


法が裁く、彼の人生にはこの先社会的には死んだも同然だ、というところで納得していた。それは諦めに似ているかもしれないが、自分自身の心のなかにある負を、その負の連鎖を断ち切るために必要なことだった。


私は祈りはしなかったが、それに通じるようなところはあっただろうと思う。


ジグメのこの言葉は、そのものがチベット人の言葉であり思想である。憎しみや怒りでは何も解決しない。同じことを感じていたらしい彼らに、私は郷愁のような懐かしさを感じた。



昼過ぎのあるテレビでは、プロ野球の選手たちが札束を目の前に、ボールを投げたり打ったりして賞金を獲得する、という番組をやっていた。


私にはそれがひどくあさましく、不快でならなかった。







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最終更新日  2004年02月28日 20時27分24秒
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