324462 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

トラベルボデギータスタッフブログ

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
2007年11月14日
XML
最初は土地を借りて農作物を細々と育てていたわれ等が先輩諸氏。
少しずつ自分の土地を手にし、キュウリやスイカなどを栽培して生計を立てていた。
米国のフリーポートのような状態だったこの島。
59年以前のインボイスは、<××COMPANY>と英語でしっかり明記されている。
キューバはスペイン語の地だけれど、
彼らは最初に英語を学ばなければならなかった、という。

観光スポットの特に存在しない、だからあえて脚光を浴びずに
本来の素朴なキューバの生活が続いているように見えるこの島。
もしも訪問するなら、是非<モデル刑務所>と命名されている
現在は訪問可能になっている<刑務所跡>に是非行って見て欲しい。
人権を全く無視したこの刑務所のつくりには、背筋がゾッとする。
(カストロ、ラウルもこの刑務所で過ごした。彼らは恩赦によりここから出所。
 後メキシコへ向かい新しい戦法を練り直し、それが59年の革命達成へと繋がっていく。)

米国の時代に建設されたこの刑務所には、刑期6年以上から
終身刑まで、つまり凶悪犯がキューバ全土から集められた。
1953年の島の人口は約1万人。うち3千名が塀の中の刑期囚であった。
(現在2007年の島の人口は約86000名)
そして第二次大戦勃発。
敵性国民として約350名の日系成人男子がキューバ全土より集められ
強制収容されていた場所だ。そのほとんどが、一世の方々であった。
特筆すべきは、3年あまりも男性のみが収容されていたこと。
本国アメリカでは、家族ごとまとめて収容された地域がほとんどではなかったか。
訪問時もスペイン語のみが許され、日本語で会話することは禁止されていた。
ほとんどがスペイン語を話さない一世の彼らである。
3年以上も自分の夫や父親と会話の出来なかった人々が多く存在したに違いない。
そして終戦。その間に全ての個人財産を没収され、
塀の外へ出た後は、正に裸一貫で再スタートを切らざるを得ない
そんな状況下が待っていた。
そして多くの人々が、キューバを後に帰国
または他の地へ移ったのだそうだ。

彼らにとっては、それが終わりではなかった。
次に来る大きな変化は、1959年のキューバ革命である。

島の日系の男性と結婚した兵庫出身の友人を訪ねる。
島の中でも人里離れたその村に、豚と馬と雌鳥とたくさんの犬と一緒に暮らす。
帰りには山盛り一杯のグレープフルーツを土産に持たされた。
以前は誰かの(きっとアメリカーノだね)所有だったその古い樹は
いつもたわわに果実をつける、という。

自分の意思とは裏腹に、時代の激動に向かわざるを得なかった時代に生きた
多くの先輩諸氏を想い、現在の私達を思う。
勝手な意思で動くことが許される現在に、深く感謝したい。
そう思いながら早朝のハバナへの飛行機へ乗った。

A監督、お世話になりました。
番組のアップを心待ちにしております!









お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年11月15日 05時56分24秒
[キューバ雑学豆知識] カテゴリの最新記事


PR

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

Bodeguita Habana

Bodeguita Habana

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

コメントに書き込みはありません。

Freepage List

Headline News


© Rakuten Group, Inc.