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2011.04.12
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前回の「富士山噴火史10」のままですと悲壮感漂う話なので、忠順死後の相続問題、亡所に対する幕府の政策の方針転換を見てみたいと思います。

伊奈家からは病死と届け出されますが、幕府は受理せず保留しています。お救い米の書類不備問題は、被災民を救うためであったとしても、勝手に国の税金を私用するのと同じ意味ですから、突然の「重要参考人」の死に、慎重な対応を取ったのでしょう。

言うなれば政治家の収賄や汚職問題で、事情聴取しようとした秘書が突然死して騒ぎになるのと同じ感覚だったと思います。

忠順の死は切腹だったという噂は早くから幕閣内でも知れたようで、「切腹したのなら罪を認めたと同じ。即刻絶家(家を取りつぶすこと)にすべし(主に勘定奉行中山時春、大目付横田由松等)」「切腹は噂、病死なのだから子に父の職を継がせよ(老中大久保忠増)」という議論で、大揉めだったのです。

このため忠順が死んだことは将軍徳川家宣に伝えられていません(本来なら一代官の死の報告など、将軍に言上しなくてもいい話ですが、伊奈氏と関東郡代は別格のため、伝えられるのが自然なのです)

さらに連署した一人、勘定奉行萩原重秀新井白石が衝突し、伊奈家の問題から両者の権力闘争へと変化していってしまいます。重秀は己の地位を守るために、白石はこれを機に「柳沢派の残党」土屋政直と萩原重秀を、幕閣から排除を意図していました。もちろん被災地のことなど2人の頭に無かったと思われます。

そんな折、唐突に動いた人物がいます。政界から引退した大老柳沢吉保です。彼は将軍家宣へのご機嫌伺いのため江戸城に登城しました。それは忠順の死から約1ヶ月が過ぎた時でした。

「美濃守(柳沢吉保のこと)、何か困っていることはないか? 遠慮無く申せ」
「さればひとつ。関東郡代伊奈忠順急死の件、上様はご存じでございますか?」
「なに関東郡代が? 余は聞いておらぬ」
「ひと月前のことと聞き及んでございます。さらに相続が滞っておるとの噂を耳にいたしました。なぜかようなことになったか存じませんが、伊奈家は神君(徳川家康のこと)以来、関東郡代の職にあって功績並ぶものがないほどの家柄。富士の山焼け(噴火)以来の忠順の働きも、真に民百姓のため尽くした徳行の士でございます。何卒よきようお取りはからいくださいますようお願い申し上げます」

家宣は眉をひそめたと言われています。吉保の話が彼の知らない話ばかりだったからでしよう。家宣はその場で近習に調査を命じ、吉保には「よきよう取りはからう。安心いたせ」と答えています。

この頃から、家宣は死病にとりつかれはじめていました。次第に病臥に伏せって政務を執れない日が多くなっていきます。

ですが彼の知性と判断力が落ちていなかったことを物語るのは、この件の諮問を新井白石にしなかったことです。通常この手の話は、白石から進んで家宣の耳に入れてくる種類の話なのです。ですが話してこない以上、白石は当事者の1人で、自分に何か隠している大きな話があると気がついたのです。

徳川幕府も、五代将軍綱吉のあたりから、将軍に情報が入りにくい風通しの悪い体制になりつつあります。

皮肉な話ですが、世の中が平和になって常に将軍の決断が要るような重要議題が無くなりつつある事と、幕府の官僚体制が円熟して、最高権力者の不在でも、政務が滞らない体制になったことが大きな理由です。高度に完成された官僚システムとは、柔軟性を欠く組織の裏返しでもあるのです。この辺は今回の震災での政府や行政の対応を見て頷かれる方も多いのではと思います。

話を元に戻します。

近習たちも口の重い関係者からの聴取に手間取り、家宣の体調不良もあって、報告がなされたのは、柳沢吉保の来訪から2ヶ月近く過ぎてからだったようです。この時家宣は、かつて江戸で実施した公共事業の予算の出所が、富士山麓の救恤金であることもはじめて知ったと思われます。

家宣周辺の動きを、注意深く見守っていたのは老中土屋政直でした。彼は忠順の死後、連署の件をのらりくらりとはぐらかし続けていました。これは己の保身もあったでしょうが、亡所の話など一気に言上するタイミングを計っていたと見るべきなのでしょう。機は熟したと見るや、彼も行動を起こします。

将軍家宣の所に候うすると、「上様、今生の別れにまかりこしました」と切り出しました。これは「切腹します」という意思表示です。

「この老いぼれは、連署を免ぜられたのを忘れ、公文書に署名いたしました。故に関東郡代伊奈半左衛門が腹を切ったと聞き及びました。もはやこの老いぼれに老中の大役は務まりませぬ」

政直の言葉を聞いた家宣は、苦笑いを浮かべたといいます。

「忘れることは誰でもある。余もずっと忘れていたことがあった。一度ぐらい忘れたからと腹を切ることまかりならぬ。今までどおり出仕せよ。それと関東郡代病死の件、余も聞き及んでおる。相続が滞っておるのは余の手落ち。早急に良きにはかろう」

切腹したと聞いたと発言した政直に対して、家宣は病死と聞いたと答えています。一見するとかみ合っていない会話ですが、家宣は言外に忠順の行動に罪とするものはないことを明言したのです。これは鶴の一声でした。

さらにこの後、家宣は亡所の件を審問し、幕閣は狼狽したと言われています。家宣がいう「忘れていたこと」が何であったかは、言うまでもないでしょう。駿東郡59ヶ村の亡所は、ひっそりと解除されました

「関東郡代伊奈半左衛門忠順死ければ、養子十蔵忠逵に家をつがしめ、父の原職を命ぜられる。忠順実子造酒助忠辰幼稚なれば、忠逵が子となすべしと仰下さる」

とは、徳川幕府公式記録『徳川実紀』の正徳2(1712)年5月26日(旧暦)の記述の一節です。公式記録はなぜ伊奈家の相続が3ヶ月も滞ったかについて何も触れていません。

被災地の状況を見てみたいと思います。
忠順急死の報は、十日の内に駿東郡に達したと言われています
(被災地には、忠順が病死したとする幕府の公式発表は届きませんでした)。伝承では領民は皆慟哭したと伝えられていますが、公的な文書は沈黙したままです。

しかしここから奇妙な事が起こります。忠順が死んだ正徳2(1712)年から正徳5(1715)年までの3年間、駿東郡から食糧支援を求める嘆願書が一通も出されていません。嘆願が再開されるのは享保元(1716)年からで、内容は前とほぼ同じです(ただし農地回復率は3割近くまで上昇しています)

飢餓に苦しんでいたのは変わらないのに、なぜ3年間嘆願しなかったのか。また農地回復率が急速に進んだのかについて理由は分かりません。

作家の新田次郎氏は、無言の3年間は伊奈忠順の喪に服する期間だったのではないかと推測しています。

事実、御厨地方では、「幕府の要人達は、伊奈半左衛門様が切腹されたことで考えを改め、その後御扶持米を下されるようになった。被災地の農民達は、伊奈様の死を悼み、しばらくは何も言わずに砂よけに精を出そうと申し合わせた」という伝承が残っているそうです。

伝承は、砂よけを急速に進められるほどの、大きな食糧支援の再開があったことを匂わせますが、御扶持米の量などは記録が無く詳細は不明です。

さらに伊奈忠順の死後、隣接地域からの支援、いわゆる民間支援も活発になったと言われています

震災後、被災者が大挙頼ってくることを恐れた近隣の村々は、駿東郡の村々と絶交していました。非情な話ですが、数万の被災者が頼られても分けられる食糧がないため、被災地と共倒れしないよう、絶縁していたのです。

しかし忠順が被災民のために切腹したという話を聞いて、「お殿様(忠順のこと)に腹を切らせて、知らん顔しているわけにいかない。百姓にも百姓の仁義がある」と、方針を改めたと言われています。

伊奈忠順の死因が何であれ、その死は幕府も被災地に隣接する村々にも大きな影響を与える事件となったのでした。

最後に、駿東郡の村々では伊奈忠順の徳を慕って、小祠が建てられひっそり祀られます。忠順を祀っているのが知れて、伊奈家の方々が幕府に睨まれては大変と、小祠のいわれは口伝のみ、参拝は村人一人ずつでおこなう秘祭だったと言われています。

59ヶ村でそれぞれ祀られたそれは、幕末までに4つの祠に合祀され、さらに昭和32(1957)年に一つの神社に合祀統合されます。駿東郡小山町須走にある伊奈忠順を祀ったそれは伊奈神社と言います。

・・・なんか小説の最終話みたいな終わり方ですが、ブログは終わりませんよ(汗)






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Last updated  2016.04.10 13:43:01
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