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2011.04.29
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カテゴリ:火山災害

友人と3 

震災で苦しんでいらっしゃる福島県の方へのエール・・・にはならないか(汗)。

かつて福島県を襲った大災害、会津磐梯山の噴火について触れてみたいと思います。

♪(エンヤー)会津磐梯山は宝の山よ 笹に黄金(こがね)がなりさがる・・・♪

という出だしを聞いた事のある方も多いのではないでしょうか。これは会津磐梯山を唄った民謡の一説です。

磐梯山は安達太良山吾妻山と並んで、福島県を代表とする山です。
歌詞の「宝の山よ 笹に黄金がなりさがる」のくだりは、諸説ありますが、

・磐梯山は鉱物資源、特に鉄が豊富で、住民に大きな富をもたらしていたから(これは隣の安達太良山も同じで、名前の由来は砂鉄が豊富で「たたら=砂鉄から鉄を取り出す製法」が盛んな山が語源という説があります)。
・江戸時代の飢饉の際、磐梯山に多くあった笹の米を食べて飢えをしのぐ事が出来た。

の二つが有名です(前者の方が有力です)。

鉱物資源の存在も、有機栄養素の豊富なことから木々や農作物の豊富な火山がもたらす恩恵と言えるものといえます。

磐梯山が大規模な火山活動をおこなっていたのは9万年前で、その後も活発な活動は続いているものの、小規模な噴火が中心の山です。有史上大規模な噴火の記録は2回しかありません。

有史上最古の噴火は大同元(806)年で、山頂を破壊する水蒸気爆発だったと考えられています。大量の土砂は磐梯山周辺の50の集落を埋め尽くしたと伝えられていますが、例によってこの時代は、東国に関する記録は少なく、詳細な被害は不明です。

この時まで磐梯山は富士山に近い形をした2000メートル級の成層火山であったと思われており、山頂が破壊された事で、4つの峰(大磐梯、小磐梯、赤埴山、櫛ヶ峰)をもつ火山に変わっています。

その後も小規模な噴火と活発な活動は続いており、江戸時代天明7(1787)年頃書かれた『東国旅行談』という本に、「高峯の峰より炎火立ち昇る事は烈々として其煙雲と等しく天を焦す勢なり」と記されています。

しかし住民を苦しめるような大規模な火山災害はなく、麓の人々にとっては宝の山であり、「会津富士」と呼ばれた風光明媚な自慢の山でした。

その磐梯山が不気味な鳴動をし出したのは明治21(1888)年7月8日頃です。ただしこの時点では、住民に深刻な危機意識はありません。小規模な噴火は今までもあったため、いつもの噴火という認識だったのでしょう。なにせ大規模な人的被害をもたらした噴火は1千年前ですから無理もありません。

そのため地元の生活は普段と変わらず、無警戒のまま7月15日を迎えます。
同日朝7時半過ぎ、磐梯山麓を大規模な地震が襲います。そして地震の揺れが続く中、小磐梯で噴火が始まります。

この時の噴火がいかに激しかったかを物語るのは、噴火開始から1分間の間に、15~20回の爆発が起きた事です。特に最後の爆発は小磐梯峰を吹き飛ばすほどの破壊力でしたが、住民がそれを知るのは3時間後の話です。

「爆裂後凡ソ三時間ヲ経テ鳴動止ミ、四方漸ク晴レ山麓ノ人民ハ此時初メテ磐梯群麓ヲ望ム事ヲ得テ、先ノ音響ハ小磐梯山ノ壊裂飛散シタルモノト確認シタリ」

とは、農商務省に勤務していた大塚専一の目撃談です。

噴火場所近くには3つの温泉がありましたが、噴火に際して上ノ湯、下ノ湯の二つは、噴火と同時に吹き飛ばされて消滅しています。中ノ湯だけがかろうじて無事でしたが、湯治客30人が死傷する惨事となっています。

「大砲三挺程一度に発せし如き音聞え、黒烟一度に立上り、山崩の響など其の凄しきこと言はん方なく、瞬く間に黒烟天を掩へ大小の石落ること限りなく自分等銘々思ひ思ひに諸方へ逃げ候へしが、五間、七間、十間位にて、皆々地に伏し候。此の時は何も見得ず真の暗夜となり地震は止まず耳目鼻口等に、土砂が入り声を出す事叶わず、自分は生きたる心地少しもなく夢中にて確とは覚えず候へ共、右の手に石落ちたるときはさては創を受けたりと思へり。続いて腹部、右足、背に各々小創を負へり。其の後一時間程経て石の落ちることも止み暗黒も漸く薄らぎておぼろ月夜位になりし故、自分逃るるは此の時と思ひ逃走すること二町程下るとき二番破裂あり、三町程下る処に三番破裂致し申候。その時は土砂のみ身に掛りて石には打たれ申さず候」

「大砲3門を一度に撃ったかのような大音響が鳴り響き、黒煙が空を覆い、山なりの激しい事言葉で言い表せない。すぐさま大小の石が降り注ぎ、自分も他の人々も思い思いに逃げ出したが、わずか走る間にも地に倒れ込む事が何度もあった。その間にあたりは暗闇に被われ地震は止まず、耳、目、鼻、口に土砂が流れ込み、声を出す事も出来ない。生きた心地もせず右手が石で怪我したのは覚えているが、知らないうちに腹部や右足、背中にも小傷を負ってしまった。その後1時間あまりして噴石が止み、黒煙も薄れて月明かりぐらいの明るさになったので、逃げるのは今しかないと走り出すと、200メートルばかり進んだところで爆発があり、さらに300メートルほど進と3度目の爆発があった。この時は土砂をかぶったが、石に当たる事はなかった」

という意味になりますでしょうか。これは、噴火当日中ノ湯温泉に滞在して、生き残った新潟県来迎寺の僧侶鶴巻浄賢の体験談です。噴火直後の噴火口近くの状況、必死の脱出行の緊迫感が伝わってきます。

この時も大同元年の時と同じく、水蒸気爆発がメインの噴火でした。マグマが上昇して地下水が加熱気化して岩盤の許容量を超えて破壊し、一気に小磐梯山体の北半分を吹き飛ばして(そのため標高で165メートル低くなっています)、岩屑なだれを引き起こしたのです。

12~15億立方メートルと推定される土砂は、時速約80キローメートルの速度で磐梯山北側を埋め尽くし、秋元、細野、雄子沢など5村11集落を呑み込み、477人の死者行方不明者を出しています。

「爆裂の際には猛烈なる疾風を起こして樹木を抜き家を倒せり。然るに物の悉く山より外に向かひて倒伏したるを見れば風は憤口より山下に向ひ直進せしを知るべし」

とは噴火後現地調査をおこなった帝国大学関屋清景博士の『磐梯山破裂実況取調報告』にあるくだりです。

爆風によって樹木が進行方向に向かってなぎ倒され、多くの家屋を倒壊させている様子が窺えます。同じ事は似たような山体崩壊を引き起こした火山アメリカ・セントヘレンズ山の噴火(1980年)でも同様の事がおきており、噴火時の爆風がいかに凄まじいかを感じさせます。

後編に続きます。






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Last updated  2011.05.04 22:28:18
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