|
カテゴリ:激動の20世紀史
「大統領閣下! U2偵察機がキューバ上空でレーダーから消えました! 撃墜されたと思われます!」 国防総省(ペンタゴン)からの連絡を受けた時、ジャック(ジョン・F・ケネディ大統領)は受話器を握りしめたまま、しばし呆然としていたと言われています。 まもなく、キューバ側からもU2撃墜と、パイロットのルドルフ・アンダーソン少佐の死亡が発表されました。 キューバ軍が保有する対空兵器では、2万m上空を飛ぶU2には届きません。撃墜する能力を持つのはキューバに駐留するソ連軍の地対空ミサイル部隊(低空での偵察活動によって、アメリカ軍も存在を確認していました)しかありません。 つまりソ連からの先制攻撃なのは明白でした。 「閣下、U2を撃墜したソ連軍地対空ミサイル部隊に攻撃を許可してください」 と懇願してきたのは、マクスウェル・D・テイラー大将(統合参謀本部議長)です。 彼は軍人と言うこともあって、エクスコム(最高執行評議会)の中では積極的なキューバ攻撃賛成派でしたが、最強硬派である空軍参謀総長カーチス・ルメイ空軍大将とは異なり、平和的な解決を図りたいという大統領の考えに、一定の理解を示していました。 しかし、交渉で解決できるにせよ、戦争になるにせよ、偵察飛行は継続し続ける必要があります。米軍機を攻撃したソ連軍部隊を放置しておくことは、次の犠牲者を出す事になり危険です。 それにアメリカ軍の伝統として(他国の軍隊でも大なり小なり同じ考えはあります)、殺された仲間の仇は戦友がとるという軍人特有の「掟」があります。放置することは士気にも関わります。 「ただちに報復攻撃を行う事は承認できない」 ジャックは答えました。第2次大戦中は彼も海軍軍人でしたから(余談ですが、魚雷艇PT109の艇長として太平洋戦線に派遣されましたが、1943年8月2日にパトロール中、日本駆逐艦天霧と衝突して乗艦を沈められるという経験をしています。さらに余談を言いますと、天霧艦長だった花見弘平少佐(階級はケネディ艇と戦った時)とは、一度も会うことはありませんでしたが、戦後手紙のやり取りが始まり、親友と言ってよい間柄になっています)、テイラーの主張も軍人特有の考えも理解出来ていました。 しかし進言を聞き入れれば、今度はソ連がまた米軍機を攻撃し、それに対して米軍がまた反撃してと、なし崩し的に全面戦争に拡大していくことになってしまいます。 この時は報復攻撃を許可しなかった大統領ですが、彼が取り得る選択肢は、もはや少ないものでした。 エクスコムのメンバーのほとんども、戦争やむなしに傾いていました。 フルシチョフの強硬な第2の親書、そしてソ連軍によるU2偵察機の撃墜、この2つが、1つの延長線上にあるソ連の決断と考えない者はいないでしょう。 海上臨検を提案し、外交による解決案を考え出したロバート・S・マクナマラ国防長官ですら、「大統領、もはや戦争しかありません。これ以上敵に時を与えぬ為、なるべく早くに開戦すべきです」と主張しました。外交交渉による解決を主張する者はこの時いませんでした。 ジャックは無言で、皆から背を向けて窓の外に目をやりました。後に大統領の実弟ロバート・F・ケネディ司法長官は、「あの時(つまりキューバ危機の時)、「自分が大統領じゃなければよかった。そうすればこんな決断をしなくてすむのに」と思ったことが一度だけある」と兄から聞かされた事を回想していますが、それはこの時かもしれません。 「しかし、明日も我が国の偵察機がキューバ側の攻撃を受けるようであれば、その時は直ちに爆撃を開始しよう。 大統領の決断はとうとう戦争と決まりました。 その言葉に真っ先に賛同したのは、言うまでもなさそうですが、ルメイ大将でした。 「閣下のご決断を支持します。テイラー将軍、空軍は月曜まで(報復を)待つことが出来ます。一度にキューバ全土を火の海にしてやった方が、アカ共を一匹残らず始末してやれますからな」 と、テイラーに向かって言いました。ルメイはどこまでいってもルメイでした。 こうして史上初(ついでに2012年12月現在までで、唯一の命令です)のデフコン2(準戦時態勢)が発令されました。 デフコン2になると、デフコン1(核兵器の使用を含む国家総力戦体制)へ即座に対応できるよう、全ての弾道ミサイルに模擬弾頭(やっぱり核兵器ですから、事故などが起きないよう、通常は専用の貯蔵施設で厳重に管理されています)から核弾頭へと換装されます。 また戦略空軍部隊は、核爆弾を搭載した全爆撃機の1/8に当たる機に出撃命令が下り、アラスカ・北極圏上空に空中待機することが義務づけられます。 出撃を命じられたB52爆撃機の搭乗員たちは、「神様! とうとう始まっちまった!」と叫んで仲間同士、手を取り合った後、機上の人となりました。残った搭乗員たちも、家族に別れの手紙を書くのに忙しくなりました。 彼らは後に「生きて地上に戻れることは出来ないだろう」と覚悟したとインタビューに答えています。 全アメリカ軍への命令である以上、欧州に駐留している米軍、在日米軍などにも戦争準備態勢に入り、通報を受けた西側同盟諸国(NATO、日本、台湾(中華民国)等)も、軍の動員と警戒態勢が発令されました(ただ今回調べた限りでは、日本政府や自衛隊が、どのような対応をしていたのか確認できませんでした)。 デフコン2発令は、アメリカ国民にも強い衝撃を与えました。 アメリカ中のスーパーマーケットから食料品が消え、多くの国民が家に閉じこもりました。そしてテレビやラジオを一日中つけっぱなしにして(もちろん急な避難命令に対応できるようにするため)、家族みんなでリビングで夜を明かす、そんな家庭が多かったと言われています。 一方ソ連も、U2撃墜に動揺していました。 マリノフスキー国防相は「しまった」とうめいて絶句し、フルシチョフ書記長は、「なんという愚かなことをしたのだ! 貴様は全てを台無しにするつもりか!」と、イッサ・ブリーエフ大将(キューバ駐留ソ連軍司令官)を強い口調でなじりました。そして、「二度と偵察機に手を出すな」と厳命しました。 ソ連軍の指揮系統は、書記長の命令が絶対厳守、優先されます。アメリカもその事をよく知っている以上、U2撃墜はフルシチョフの命令と判断したことでしょう。実質的にソ連からアメリカに宣戦布告したに等しいのです。 トルコにあるアメリカのミサイルを撤去させるどころか、そのミサイルは逆にソ連に向けて発射される可能性が高くなってしまいました。 まもなくクレムリンに、西側諸国の軍隊が動員されはじめたとの報告が届きました。対抗上ソ連もミサイルへの核弾頭搭載(ただしキューバのミサイルへの核弾頭搭載は、最後まで許可しませんでした)、ワルシャワ条約機構軍の動員が発令されました。 フルシチョフもケネディ大統領と同様、戦争を回避したいのが本音でしたが、アメリカが戦争準備を明確にした以上、対抗上戦争準備しないわけにはいきません。彼もまたソ連国民1億数千万人の安全と国土の保全に対して責任があるのです。 U2撃墜の丸1日後、東西両陣営は、数百万規模の軍隊の動員が進み、東西ドイツなどの境界線では国境が閉鎖され、両軍のにらみ合いが始まりました。 1962年10月27日、世界は、核戦争の恐怖と狂気の「暗黒の土曜日」の中にありました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[激動の20世紀史] カテゴリの最新記事
|