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カテゴリ:プラモデル・大戦機
最近ブログ更新が滞っています。平日も休日もなんだかんだと時間がとれないんですよね・・・。 まぁ仕事で忙しい時もあるのですが、暑さのせいか、家でのびててPC向かえない時も多いんですよね。今年の夏、鳥類にとって一際厳しいです(汗)。 それはさておき、今回のプラモは零式艦上戦闘機最初の量産型11型(A6M2a)です。 11型は64機しか生産されず、次の空母搭載仕様の21型に発展していったため、意外に知られていない機です。 前回ブログで書いた飛行機プラモが、零戦最後の派生型54型/64型(A6M8でしたし、映画『風立ちぬ』で堀越二郎氏が話題になってますから、この辺も零戦つながりで韻を踏んでいて丁度いいかなと思いました。 なお、今回は実戦投入前の様々な苦労話が中心です。 零戦の正式採用が決まったのは、昭和15(1940)年です。この年は皇紀2600年(「皇紀」は初代天皇である神武天皇が即位したとされる年を元年とした紀年法)に当たったことから、零式艦上戦闘機という名称になりました(当時の日本の軍用機は、皇紀の下2桁を名称にすることが決まっていたので、例えば「九七式」ならば昭和12(1937)年採用、「二式」は、昭和17(1942)年採用となります)。 晴れて正式採用と決まった零戦ですが、まだ実戦段階のテストや、零戦の大きな強みとなる長大な航続距離を活かした運用方法も、検証はこれからという段階でした。 本来なら実戦投入はまだ先の話なのですが、当時の泥沼化した中国での戦況がそれを許しませんでした。 中華民国政府は、首都南京を失った後も、漢口(現在の武漢市)、ついで奥地の重慶と、首都を遷して徹底抗戦していました。日本側は中国の戦意を喪失させ、戦争終結を目論んで、重慶や成都への爆撃を強化しましたが、当時の海軍主力戦闘機九六式艦戦では航続距離不足で護衛出来ず(これは九六式艦戦の性能不足と言うより、海軍双発爆撃機の航続距離が大きすぎた結果でした)、爆撃機隊は大きな犠牲を出していました。 そこで5時間以上の滞空飛行能力を持ち、3千キロ以上の航続距離をもつ零戦の、早期投入が現場から求められました。 こうして採用間もない昭和15年7月終わり、追加試作機と先行量産機からなる17機が漢口の第12航空隊に派遣され、実戦投入にむけた訓練と準備が開始されました。 ここで零戦は、様々な問題を抱えていることが発覚します。 まず、全機とも、長時間飛ぶと異常燃焼して、エンジンの気筒温度が上昇して、焼き付く寸前になってしまいます。 栄エンジンはそれまでの短列気筒エンジンではなく、複列気筒という構造だったため、各気筒に適したガソリン混合気が上手く分配されず、配置上冷却されにくい後列の気筒の温度が、どんどん上昇してしまったからでした。 応急処置として後列一番気筒の導風板を撤去し、カウリング(エンジンカバー)に穴を開け、発動機の回転数を制限することで対応しましたが、全速力を出せない状態では戦闘など出来ません。 結局この問題は、混合気自動調節装置(AMC)を開発、装着するまで解決せず、それまでは欺し欺し使うしかありませんでした。 さらに派遣隊は、試作機と量産機の混成部隊だったこともあり、エンジンや機体同士の部品の互換性が無く、故障や不具合に苦しめられています。 特に試作機のエンジンは故障が多く、試作機に搭載された栄エンジンは全取っ替えすることになります。後日、高い機械的信頼性で海軍がベタ惚れする栄エンジンも、初期段階では数々の故障に悩まされたのです。 次に問題が発生したのは零戦自慢の強武装、九九式二〇ミリ一号機銃でした。 折しも派遣されたのが夏の7月だったこともあり、強い日差しに熱せられて20ミリ機銃の弾倉は70℃以上の高温になってしまい、暴発の可能性が取りざたされました。 そして8月10日の空戦訓練中に、銃身内で炸裂弾が暴発する事故が発生し、危険が現実のものになりました(墜落などの最悪の事態は避けられました)。 後日、炸裂弾の設計に欠陥があったことが判明しましたが、設計を改修後の銃弾が届くまでの間の対策として、地上で機体覆いをかけて温度上昇を防ぎ、出撃直前まで20ミリ機銃に炸裂弾を装填しないようにしました。 こうしてみると、故障が少ないと言われた零戦も、初期不良に見舞われて苦労していたことがわかります。 出撃に当たっても、1人乗りで航法に余裕のない零戦隊が遭難しないよう(レーダーなどの誘導装置の無かった時代です。1人乗りの飛行機が、方位を見失って遭難する事故は、当時珍しくありませんでした)、誘導の偵察機をつけ、単機ではぐれた機のために収容機を手配して上空で待機させ、地上でも不時着場を設営するなど、戦闘以外での損失が生じないよう、運用側もかなり気を使っています。 このように様々なトラブルを解決しながら、昭和15年9月13日、零戦は初陣を迎えます。 この日出撃した零戦11型13機は、重慶上空で中国軍戦闘機27機中24機を撃墜・撃破し、初陣から一年間の間に、中国軍機270機を撃墜・撃破して、大戦初期に至る無敵神話を作っていくことになります。
今回の仕様は、世界的に有名な撃墜王(エース)坂井三郎氏が昭和16(1941)年5月に搭乗していた機です。 零戦11型は次の21型とほぼ同じ構造なのですが、作ってみると細かいところが違う所があります。 例えば排気管の位置は21型以降の型より一段上ですし、風防後方が一部ガラスになっています(21型以降は金属製になりました)。 またプラモでは違いはわかりませんが、11型は主翼の強度不足で、金属疲労から空中分解事故(下川事件。テストパイロットの下川大尉が殉職しました)が起きました。そこで主翼の再設計して強度を改善して換装した結果、21型は11型より16km/h最高時速が速くなりました。 キットの方ですが、古い限定版をオークションで手に入れたものなのですが、古くて変形が生じていたのか、それたもたまたま手に入れたものに問題があったのか、胴体部分の付け合わせが上手くいきませんでした(汗)。 なので上下の写真は撮ることが出来ませんでした(ブログの画像は、目立たないもの載せてますけどね)。
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