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カテゴリ:旅行・史跡など
下山時間の方は想定通りでしたが、体の疲労の方は想定以上でした。 本当はこの後、焼走り溶岩流を見学するつもりだったのですが、その気力もありません。早々の離脱して、温泉に行くことにしました。 温泉後も行く余裕がなかったため、焼走り溶岩流は、説明の看板のみで終了としなってしまいました(多汗)。 焼走り登山口から200mぐらい離れたところにある「焼走りの湯」です。 単純温泉ということで、硫黄臭はしませんでした。2日間に及ぶ登山の疲れをゆっくりいやしました(浸かりすぎてのぼせたのはおまけです)。 温泉上がりはコーヒー牛乳(岩手県で有名な小岩井牛乳です)を飲み、のんびりと食事タイムです。 お腹は空いていたのですが、ガツガツ食べたい心境でもなく、「焼け走りラーメン」をいただきました。塩味が体に心地よかったです。 温泉に食事で人心地つきました。この後の予定をどうしようかと考えました。 当初の計画では、県民の森までタクシーで移動して、バスの時間まで八幡平温泉郷を気ままに散策して食べ歩きや温泉とか考えていたのですが、残念ながらこれ以上歩きたくない心境だったのと、スマホがただの「電話機+時計」となっており、店や観光情報が調べられないため(この点は後々も尾を引きます)、行動が制限されてしまっていました。 そこで時間は予定より速いですが、盛岡方面へ向かうことにしました。タクシーで大更駅に向かいました。 途中のコンビニで重たい荷物を宅急便で家に送り、身軽になって駅に向かうと、ちょうど北に向かう電車が駅を発車していきました。 それを眺めながら駅に入っていくと、駅員さんに声をかけられました。 「鳥さん、どっちに行くの? 盛岡?」 「クワッ! クワッ!!(盛岡駅の方です)」 「あ、それなら、表でバスを待った方が早いよ。電車は当分こないから」 「クワッ?」 時刻表を見ると、盛岡行きの電車が来るのは、あと1時間40分ほど後で、バスの方は、20分後に到着する予定でした。 実をいうと、帰りの高速バスは23時過ぎの出発のため、まだ9時間ほど時間が余っていました(格安旅行の痛い点です・涙)。 のんびり電車を待ってみるのもよかったかもしれませんが、いかんせんすごく暑い(温度計を見たら32度超えていました。家に帰ってきて当日の東京の気温を見たら28度ぐらいでしたねぇ)。 いったん駅の待合室に逃げたのですが、冷房もなくサウナ状態で、近所に避難できそうな喫茶店なども見当たらなかったので(この辺も、スマホが使えていれば、店を探せたのですが・・・)、バスに乗って逃げだすことにしました。 バスのアナウンスで、「安部館」と流れたため、急きょ寄り道することにしました。 「何の写真?」と思われるでしょうね(汗)。写真は安部館の南側の濠の跡です。 安部館というと知名度は低いですが、日本史に詳しい方なら、「厨川柵(くりやがわのさく)」というと、見当がつく方も多いかもしれません。 平安時代、前九年の役(1051~1062)と呼ばれる戦乱がありました。 陸奥国で一大勢力を誇っていた安部氏が、朝廷と対立し(史書では安部氏が朝廷への貢租を怠ったためとされていますが、安部氏の支配地域にある金山を朝廷が欲したとも、俘囚(陸奥・出羽の蝦夷のうち、朝廷の支配に属するようになったもの)の安部氏の勢力が拡大することを恐れた朝廷の謀略とも言われています)、反乱に発展しました。 反乱は鬼切部の戦い(1051年)、黄海の戦い(1057年)で朝廷側が大敗したため長期化し、焦った陸奥国司源頼義が、出羽の豪族清原氏を必死に口説いて味方に引き入れ、その援軍により厨川柵を落としてようやく鎮圧しました。 前九年の役と、この20年後に起きる後三年の役(前九年の役後、鎮守府将軍となり隆盛を極めて清原氏ですが、家督をめぐる内紛が起き、それに陸奥国司源義家(頼義の子)が介入して戦乱となり、清原氏は金沢柵(秋田県金沢市)に滅亡しました)は、後の河内源氏の隆盛への切っ掛けになり(それまで河内源氏は、臣籍降下(天皇家の血族で、皇族の身分を離れて臣下になったもの。源氏姓や平氏姓を名乗りました)した一氏族にすぎませんでしたが、この後源氏の嫡流と称するようになりました)、のちに子孫の源頼朝の鎌倉幕府へと道を開いていくことになります。 とまぁ、解説はこの程度にします。 この安部館ですが、鎌倉時代、地頭として赴任してきた工藤氏が、厨川柵の跡に館を立てた場所になります。なので厳密には厨川柵の遺構というわけではありませんが、往時の雰囲気をわずかながらにとどめています。 神社がありました。貞任宗任神社とあります。安部貞任、宗任兄弟を祀っているようです。 安部貞任は安部氏の棟梁で、厨川柵落城時に討ち死にしました。弟の宗任は、部下たちを落ち延びさせた後に投降し、一命を助命されました(なお余談ですが、現総理大臣安倍晋三氏は宗任の子孫といわれています)。 ・・・で、中途半端ですが、写真はこれで終わりです(汗)。 東京に帰ってからわかったのですが、貞任宗任神社の北側に、安部館の遺構(そちらが本丸)があったのですが、この時は神社を参拝して道に迷って車道に出てしまい、そのまま盛岡駅へ向かって終了となってしまいました(暑くて疲れたのもありました)。 スマホで地図などを見られていたら、こんな失態にはならなかったのですが・・・。返す返すも無念です。 その後、ファミレス(味気ないけど予算不足のため・涙) で夕飯を食べた後、バスの出る23時20分まで駅の待合室で過ごしました(5時間の休憩は長かった・・・)。 バスは途中混雑で20分ほど遅れたものの、無事に東京につきまして、そのあと帰宅、夕方まで爆睡(やっぱり、バスや山小屋では熟睡はできませんね・汗)して過ごしました。 こうして、今回の岩手山登山は終りました。 岩手山、難易度はかなり高い山でした(私の登った七滝コースの難易度が高かったのもありますが)。再戦は今のところ予定がありませんが、やり残したこともあるので(鬼が城踏破と、天然記念物、焼け走り溶岩流の見学、安部館跡全部の見学等)、もしかしたらまた行くかもしれません。 帰ってきた直後といっていることが変わってますね(苦笑)。 まぁ、登っている時はいつも「もう二度と登らん!」と思っているので、今回もそれという感じかな(笑)。ただ難易度が高いのは確かでしたので、当分はリベンジは無理かな(汗)。少なくとも今年は予算が底を尽きているので、無理そうです(涙)。 それではまた。
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