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2019.09.16
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カテゴリ:西暦535年の大噴火

​崩御した斉明天皇の喪があけた661年5月、百済王豊璋を奉じた日本軍(厳密に言えば、この頃は「日本」という国号では無いので、「倭国」です)の第一陣1万が、安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市泰造田来津らの将帥に率いられて、百済南部に上陸しました。​
日本軍は新羅軍を駆逐しながら、百済再興派と合流を果たしました。ここに一時的ではありますが、百済再興はなりました。
​あとは第二陣以降の主力軍の到着を待ち、百済軍と連携して、唐・新羅軍と決戦に勝利して講和に持ち込むというのが、中大兄皇子(この時点で彼はまだ即位しておらず、天皇ではありません。天皇が空位のまま、皇太子などが政務をおこなうことを「称制」といいます)の構想でした。​
この時、唐・新羅軍は、高句麗方面に展開していて、日本軍の百済上陸を迎撃出来る兵力に余裕が無く、後手を踏みました。
百済は唐軍の後方策源地になります。日本に奪われたままでは、唐軍は、敵地で崩壊してしまいますから、唐軍総司令蘇定方は、全軍を百済に戻し、日本・百済連合軍の殲滅を優先することを決断しました。本国から劉仁軌率いる水軍の増援を受け、唐軍は水陸から反撃に転じました。

一方、ここまでは順調に戦況を有利に進めていた日本・百済側ですが、思わぬ落とし穴が待っていました。
まず、豊璋王と百済再興派の重鎮鬼室福信が対立して、豊璋が福信を処刑する騒動が起きました。
両者の対立と破局の原因は、『日本書紀』によると、福信が豊璋を殺そうとしたため、豊璋が先手を打って彼を処断したと記されています。
小説などでは、鬼室福信が豊璋王を傀儡にしようとしたため、処断したと言う構図で描かれることが多いですが、当たらずとも遠からずと言ったところでしょう。両者の間に方針を巡る対立か、権力を巡る暗闇があったのは間違いなさそうです。
この出来事は、百済再興派が一枚岩では無く、組織が脆弱であることを示しています。
​帰国したばかりの豊璋王は、本国に支持基盤を持たず(ストレートに言えばただの御輿でした)、再興派をまとめきれない上に、再興派は「百済を再興する」と言う共通目標以外では、各々の考えがバラバラで、烏合の衆だったのです。​
またどのような事情であれ、今まで百済軍を指揮していた鬼室福信の死は、百済軍の戦意を大きく低下させました。
そして日本軍にも大きな問題点がありました。統一された指揮系統が存在しない、総司令官不在の小部隊の寄せ集め状態だったのです。
​指揮系統の問題は、主力の第二陣約2万7千(指揮官は上毛野君雅子、巨勢神前臣譚語、阿倍比羅夫等)以降の軍勢が上陸しても変わらず、むしろ軍勢が増えた分、まとまりが無くなって混乱が生じるようになりました。​
遠征軍を統率するには、中大兄皇子か大海人皇子の渡海が必要ですが、称制の中大兄皇子は日本を離れるわけに行かず、戦争に反対の大海人皇子は遠征計画からはずされており、派遣出来る統率者がいません。
つまり日本軍と百済軍も、数の上では5万近い兵力に膨れあがっていましたが、共に内部に問題があって、まともに戦える状態ではなくなっていたのです。
そして663年8月、白村江の戦いを迎えることになります。
白村江口に布陣した唐・新羅連合軍約10万、軍船約170隻に対して、日本・百済連合軍約5万、軍船約1千隻でした。
そして日本・百済側が正面攻撃を仕掛ける形で、戦端が開かれました。
​劣勢な日本・百済側から攻撃が始まった理由について、『日本書記』は「我等先を争はば、敵自ら退くべし(こちらが先に攻撃を仕掛ければ、敵は恐れて撤退するだろう)」と記載しています。その場の勢いだけで始まったような杜撰な攻撃だったようです。​
兵力差はありますが、水上戦で船の数では日本側が上回っていましたから、船の数と機動力で、兵力差をカバー出来ると思っていたかも知れません。
しかし唐軍は大型船で舷側が高く、日本の軍船は接舷攻撃を仕掛けられず、逆に火攻めで軍船を焼き払われたため、惨敗を喫しました。
水上戦闘の敗北は、制海権の喪失へと繋がりました。水軍を消耗した日本軍と百済軍は陸上に退避てし抵抗を続けましたが、唐・新羅軍側は、まず水軍の機動で日本軍と百済軍の退路を遮断する構えを示して撤退を誘い、それでも頑強に抵抗する拠点は、大軍をもって一つ一つ潰していきながら、日本・百済軍を百済南部へと、追い詰めていきました。
日本側に、新たな増援を送る余力はなく、もはや百済再興も戦局の挽回も不可能でした。現地の将帥たちは日本への撤退を決定しました。
​白村江で生き残った日本側の軍船は、日本軍将兵および脱出を希望する百済遺民(例えば、豊璋王の弟善光や、鬼室福信の子鬼室集斯は日本に亡命します。善光は百済王(くだらのこにしき)の姓を賜って、子孫は平安時代ぐらいまで中級貴族として存続しますが、百済王家はその後没落して、歴史から消えていくことになります)を載せて、朝鮮半島を脱出しました。​
そして663年末までに日本軍は撤退して、百済は完全に滅びました。
​一連の戦闘で、日本側は約1万の将兵と軍船400隻を失ったと言われています。指揮官クラスも、安曇比羅夫、朴市泰田来津などが戦死しています(安曇比羅夫は白村江で戦死、朴市秦田来津は10月に、退却戦の最中に戦死したと伝えられています。その他の将帥については具体的な記述は無く不明です)。​
豊璋王は日本へ脱出せず、高句麗に亡命して戦い続けますが、高句麗滅亡により唐に捕らえられて流刑に処せられ、その後の消息は不明です。
百済の完全滅亡と、日本軍撤退によって、ようやく後顧の憂い無く、唐は高句麗へ全面攻勢をかけられる体制が整いました。
唐が高句麗への攻撃を再開したのは666年です。そして2年後、高句麗は滅びました。

かくして日本の朝鮮半島における権益は完全に失われました。しかもそれだけに留まらず、唐・新羅による日本本土侵攻の危機を迎えることになります。
その危機を、日本がどのように乗り切っていくかについて、触れたいと思います





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Last updated  2019.09.17 21:09:38
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