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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・・南関町・和水町
みやま市の松風の関に来ました。 33.09193, 130.53993
![]() 国道443沿いに、この表示が建つのみです。大水(おおむつ)と呼ばれています。 松風の関 松風の関は古代からの築後の国と肥後の国を結ぶ街道が通り、その中で背戸坂と呼ばれた、最も峻険であり要害の地でありました。 平家物語に「寿永二年・・・菊池次郎高直は都より平家の御供に候けるが、大津山の関開けてまいらせんとて、肥後の国にうちこえて、・・・。」とあり、ここに出ている大津山の関が、現在の松風の関を指すといわれています。 寿永二年(1183)当時既に関所として菊池氏によってまもられていたこと、七世紀に作られた古代官道に関所を置いたものであろうと言うことがわかってきています。 その後戦国時代は合戦の度に、肥後領になったり筑後領になったりしましたが、戦国時代の終わりに田中吉政が筑後国三二万五千石の領主として柳河城に入ると慶長六年(1601)、ここ松風の関から北を筑後領としたので、それ以後、筑後領となり現在に至っております。 続いて、柳川・肥後領境界石へ寄り道 33.08115, 130.53966 ![]() 筑後国の領境界石:湯谷柳川領境界石 ここにある新旧二本の境界石は、江戸時代に筑後柳川領と肥後熊本領の国境を示すために建てられたものです。古い方は、江戸時代初期に建てられたものと思われ、一辺36cmの四角柱の花崗岩で作られています。三つに折れて中段と下段だけが残っており、現在高は3mです。表面の文字は、読みにくく鳴っていますが、次のように判読できます。 「(従是西)北筑後国立花(左近将監)領内柳河札辻ヨリ是迄四里二十町余」 新しい方は、古い方が折れたため江戸時代末期に取り替えられたものと思われます。一辺35cm、高さ3.7mの良質砂岩の四角柱材で作られています。表面には肉太の文字で次のように刻まれています。 「従是西北筑後国柳河領 従柳河札辻四里二十町余」 ![]() ![]() ![]() 以上、90Km程のドライブでした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.09.27 16:15:02
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