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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・玉名の史跡
今回のルートです。
大野光隆の墓に来ました。32.92695, 130.50609 伊勢守紀光隆の墓(供養塔)は、平等寺(廃寺)の境内とみられるところに、東を向いて建てられている。 この墓(供養塔)は、凝灰岩製で五重に積み上げた形態である。上部から空輪、風輪、火輪、水輪、地輪からなり、このような形態を五輪塔と呼ぶ。空、風、火の三輪には仏を表す梵字を刻む。なお、本塔の最下部には、別の五輪塔の地輪が据えられている。 地輪正面には『文中二年八月二十三日 伊勢守紀光隆行年(享年)三十九」の銘文が剣まれている。 紀光隆は紀隆村を先祖とする大野氏一族の末裔である。 大野氏は、鎌倉時代、幕府から玉名郡のうち大野別符(現在の玉名市のほぼ西半分)の地頭に任じられ、その子孫は元・高麗の大軍が博多湾に押し寄せた文永の役(一二七四)の際にも活躍した。 南北朝時代になると、菊池氏とともに一貫して南朝(後醍醐天皇)に与したが、一三七〇代に入ると、北朝方が優勢となり、大野氏は次第に弱体化していった。 本塔は、文中二年(一三七三)八月に没した伊勢守紀光隆の供養塔である。本塔により、光隆の存在が知られ、歴史価値か高く、また、中世五輪塔の典型例として重要である。 台座に書かれているが、読み取れない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2020.06.29 00:00:19
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