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2020.08.22
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テーマ:史跡巡り(775)
島原の沖田畷古戦場跡 龍造寺隆信供養塔に来ました。32.80242, 130.36444

こちらは、251号線から細い路地を入って、会社の駐車場の隅にあります。判りにくいです。
251号の歩道の角に案内杭が建っています。見落とさない様に注意。


 日野江城主 有馬貴純は島原半島各城砦を配下に置き、文明四年(一四七二)佐賀に攻めいり藤津・彼杵を占領し、明応五年(一四九六)南有馬に原城を築きました。しかし、佐貿の占領地は龍造寺氏に奪い返されます。永禄五年(一五六二)有馬義直は大軍を以て佐賀に攻め込みますが敗退。天正五年(一五七七)今度は龍造寺軍が島原半島の神代・多比艮・三会・千々石の各城を占領、翌年島原浜ノ城や三会・安徳・深江を攻めて味方としました。天正十二年(一五八四)三月、龍造寺軍約五万と有馬・薩摩の連合軍八千はここに宿命の対決を迎えます。
 この地を沖田畷といい当時は海岸までの細道だけで、その両側は胸までつかる程の泥田地帯でした。この戦いで龍造寺隆信は戦死、ついに九川制覇は夢と消えました
 隆信の墓は佐賀市の高伝寺にあります。
 龍造寺隆信供養塔は、城内二丁目の石原氏が、この土地にあった祠百二十九個を一箇所にまとめ、昭和四年五月に建立したものです。

少し離れたところに二本木神社が有ります。32.80131, 130.36618



 龍造寺氏は古くから佐賀城を居城とし、周辺を領知していました。隆信公になって肥前国を制圧し、やがて島津氏と九州の覇を競いました。天正十二年(一五八四年)三月隆信公は、約五万の大軍を率い、有馬、島津の連合軍を制服しようと島原半島遠征を企てました。海路より神代(雲仙市国見町)に上陸し三会(島原市)に進出。同月二十四日に両軍は激闘を繰り返し、冲田畷において隆信公はあえなく討死しました。五十六才でした。
 二本木神社は隆信公を失った家臣のうち住みついた人達が戦死をいたみ、その霊を慰めようと小祠を建て霊を祀り、二本木様と迎ぎ病除けの神としてたたえて来たのが始まりです。この付近一帯を沖田畷といい、戦闘はこの一帯で行われました。ここから国道を諫早方面へ一五〇メートル行った右の奥には供養の碑が祀って有ります。

神社横に、石碑の集約があります。





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最終更新日  2020.08.22 00:00:18
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