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2020.11.29
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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・柳川・久留米
本城である柳川城に来ました。33.16087, 130.40114

城跡は、隣接の高校と中学に削られて、本丸跡のみになっています。



「関ヶ原の戦いの戦後処理により、西軍側だった宗茂は領地を失い田中吉政が筑後一国32万5千石を許され柳川城主となる。吉政は筑後の府に相応しく城地を拡張した。しかし田中氏が改易になると立花宗茂が筑後32万5千石のうち10万石だけ与えられ再度柳川城主となり、以降、柳川藩主の立花氏の城となった。
元禄10年(1697年)城の西方に藩主別邸(現在の「御花」)が造営された。その後、会所として使用され、さらに柳川城より奥機能が移転して、「御花畠」と命名される。」


「吉政は、城の要害に備えて規模を拡大し、城濠を掘り、石塁を高 め、五層の天守閣を建て、これを本城(居城)としました。そして、 前代以来の旧臣・土豪(どごう)、さらに毛利・立花両氏の遺臣が土着割拠(かっきょ)す る在地の情勢に対応して、立花氏と同じように支城駐屯(ちゅうとん)制度を布(し)き、 一門・功臣(こうしん)を城番として支城に配置しました。
吉政は、次男吉信(よしのぶ)を久留米城に、三男吉興(よしおき)(康政)を福島城に、 舎弟清政を赤司(あかじ)城に、元小早川重臣松野主馬を松延城に、家臣(譜 代)宮川才兵衛を鷹尾城に城番(城代)として入れ、さらに猫尾・ 城島・榎津・江浦の支城に重臣をそれぞれ配置しました。」





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最終更新日  2020.11.29 00:00:18
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