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2021.08.08
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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・・平山
薬師堂に来ました。32.99336, 130.51103



(62)薬師前藤原加賀守供養塔  平山字東山開(付図2-231)
 惟富碑より更に200m登った道路脇に、木造薬師如来を安置する石厨子がある。一帯は寺名
不詳の中世寺院の跡である。ここに石憧と板碑が並んで建っていた。
 石憧は、凝灰岩製、高さ148cm、幅約39cmの不定形角柱で、頂部に中台、若しくは笠石を
うける枘が作られている。塔の原形が、笠塔婆か六地蔵石塔かは明らかではないが、強いて
求められると六地蔵の棹石であろう。各所に破損の跡がみられるが、銘の刻字は損傷せず、
明瞭にのこり読みとれる。
「毎日晨朝人諸定(毎日晨朝に諸の定に入り) 入諸地獄令離苦(諸の地獄に入って苦を離れ
しめ、)文明十二庚/子年二月九日願主加賀守藤原忠弘 無佛世界度衆生(無仏の世界に衆生を
度し)今世後世能引等(今世後生によく引導し賜う)」
 仏説延命地蔵菩薩経にもとずく有難い言葉(偈頌げしょう)である。願主は小代忠弘。忠弘は
自分のための生前の供養(逆修)を行なって、文明12年(1480)この碑をここにたてた。
 左側の板碑は、高さ126cm、厚さ26cm、幅59cm。なかに通肩の納衣のういの裾を長く風に麾かせ、
衣の皺を腹部に垂らし、慈眼を正視した尊容は人をして浄土の世界に来迎する荘厳な姿であり
造形の手法は阿弥陀が池板碑と同一人の彫作と思われる(図版11(3))。銘文もその左右の聯に
「一念彌陀仏、即滅無量罪 現受無比楽 後生清浄土 願主加賀守忠弘 延徳元年(1489)己
酉初冬十二日 六字一石百万返右口僧敬白」とよまれる。
 藤原加賀守忠弘は、8代小代泰弘の次男重行である。註(1)元亀元年(1501)5月15日、
菊池家22代守護職菊池能運よしゆきは叔父宇土為光に菊池館を奪われ、高瀬保田木城に拠ったが
城は陥ち肥前国高木に逃れた。この戦いで加賀守忠弘は戦死した。2碑は、延徳元年(1490)
12月父泰弘(法名宗鎮 註(2))母妙泉の逆修供養のために建てたものである。
 この両塔は現在小路の光徳寺内に移されてある。

今は、薬師堂のみ。


裏に回って、







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最終更新日  2021.08.08 00:00:17
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