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テーマ:史跡巡り(775)
カテゴリ:・柳川・久留米
鷹尾城跡に来ました。33.1290361,130.4428333 大和町文化財 鹰尾城跡 鷹尾城は、近世初頭の典型的な平成て、この地方の国人領主田尻氏の本城 でした。 田尻氏の居城は、平安・鎌倉時代より三池郡田尻山の飛塚城でしたが 風水害で要害が悪くなったために、天文一七年(一五四八)、田尻親種 は、大友義鑑の許可を得て鷹尾に築城しました。本丸の規模は、東西二六聞 (四七メートル)、南北一〇前半(約一九メートル)でした。 親種は、永禄三年(一五六〇)に第かれた江浦城や津留・浜田・堀切の城を支城とし、これを鷹尾五城といいます。 戦国期の筑後は大友・龍造寺・島津の三氏を中心に激しく動きました。 元亀元年(一五七〇)、親種は、大友氏の軍に従い、 龍造寺氏の佐賀城を攻 めて傷を負い、鷹尾に帰り、城中で死にました。天正の初年以降、西北九州における大友氏の勢力が後退すると、親種の子鑑種は、次第に龍造寺氏に 近づき、天正九年(一五八一)、隆信の令により柳川城・塩塚城・佐留垣城を攻め、蒲池氏の一族残党をほろぼしました。 しかし、翌一〇年、鑑種は、龍造氏にそむいて鷹屋城にたてこもり、島津氏に援軍を頼んで戦いましたが敗れ、一二年二月、肥前佐賀郡巨勢に移されました。 隆信の死後活発と なった大友氏の動きに対抗し、同年九月一八日、鍋島直茂は、鑑種を筑後境目勤番に命じ、再び南筑後の経営ををまかせました。しかし、同年、大友方の戸次道雪・高橋紹運によって鷹尾城は落城しました。 天正十五年(一五八七)の九州平定後、立花宗茂か、柳川城に入り、 家臣立花三左衛門尉を鷹尾城番としました。慶長六年(一六〇一)には、 田中吉政の家臣宮川才兵衛が鷹尾城番として六〇〇〇石を領有ししましたが、元和 元年(一六一五)幕府の「一国一城令」(一大名に一つの城)によって 鷹尾城は廃城になりました。本丸は、現在地より約三〇メートル南に、北の丸は、田尻親種の墓の近くにあったようです。
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最終更新日
2023.09.25 00:00:24
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