北京五輪開会式
北京オリンピックが始まった。オリンピックの開催自体、国家の威信をかけて為されるわけだが、とくに開会式にはその意気込みが凝縮され、過去それぞれの開催国が趣向を凝らして企画してきたものだから、この日、中国がどんな開会式をやるのか興味津々だった。8月8日午後8時。縁起の良い「八」を並べたとか。日本時間では午後9時。今回は時差がほとんどないので助かる。休憩なしで4時間に及ぶ、オペラも真っ青な長大な式典だった。204カ国・地域からの選手の入場行進が延々と続いていた頃は、つい一眠りしてしまい、息子達もその間に「熱闘甲子園」に変えていたようだ。冒頭のパフォーマンスと入場行進の後半からラストの聖火の点火まではとりあえず目撃することができた。見守りながら最も強く感じたのは、中国という国を構成する人間の数の膨大さである。人口13億。気の遠くなる数だ。ここまで人口が多くなかった「三国志」の時代でさえ、子ども向けの本にも「百五十万の軍勢」なんていう表現がしょっちゅう出てきて、息子から「おかーさん、150万人ってどのぐらい?」と聞かれて答えられなかった。こういう人数は、○○市全体と同じぐらい、という言い方はできても、具体的に人が並んでいるところをイメージすると気が遠くなりそうだ。だから、「空前の厳戒で警察と軍を約140万人」と聞くと、やはり具体的にはイメージできないものの、中国ならそれぐらいは軽く動員できそうだと思った。メイン会場の国家スタジアム「鳥の巣」の観客10万人はもちろん、全土のテレビでこれを見守る国民。四川大地震の被災地でも、被災者の人々が数少ないテレビに集まって見る。もちろん、オリンピックなんて見る気がしない、と苦々しく思う人も大勢いるだろう。途方もない貧富の差がある。チベット問題も難しい。聖火リレーはあちこちで大混乱だった。大地震も起こる。ついこのあいだはまたテロ事件も起こった。それでも、中国にとって「百年越しの悲願」だった、この一大イベントを実行し、なんとしてでも成功させようとするという国家の意志は、たとえ何事が起ころうとも阻むことはできず、各天災人災による五輪反対派が仮に全国民の何割か存在しようとも、残りの五輪支持派だけで、じゅうぶんに膨大な数なのである。「鳥の巣」開会式のチケットをゲットした幸運な人々は、感激して涙を浮かべている。そういう人が全体の何割かいるだけで、国家はその意志を遂行できるようだ。この膨大な人口からみれば、開会式のパフォーマンスに出演していた人達なんていうのは、何段階あったのか想像もつかないほどのオーディションで選びに選び抜かれたトップ中のトップエリートなんだろうか。そういう人達が、マスゲームのパーツとして各人の動きを完璧に身につけ、かつ、個人個人を完全に消し去ったように演じているのを見ると、空恐ろしくなるのだった。最初に出てきた、開幕のカウントダウンの際、2008人の演者が四角い台のような太鼓をたたく動きに合わせて闇の中に光る人文字の数字が現れるパフォーマンスがあり、それだけでも、何と高度なマスゲームだろうと感心したが、さらにそのあとの活版印刷を表わすマスゲームや「鳥の巣」の形に輪になる組体操みたいな演技など、あれは全部同じメンバーだったのか?そうだとしたら、ものすごい練習と記憶力の壮絶なパフォーマンスだ。それとも各演目によって違うチームが出てきたのか? そうだとしたら、ものすごい人海戦術である。そして、これだけの人数の中で、ソロパートを演じた人達。中国を称える歌を歌っていた女の子は(口パクのように見えたが)何者だろう?ピアニストのラン・ランはやっぱりすごいのか?その隣で一緒に弾いていた女の子、あれもまた何者だろう?スタジアム内のトラックを走る聖火ランナー達は、往年の名選手である国家的英雄達。最終聖火ランナーは、元「体操王子」の李寧。84年ロサンゼルス五輪の金メダリストにして、現在はスポーツ用品の有限公司の会長というビジネスマンである。年齢を見ると同世代なのだが、宙づりのまま「鳥の巣」の壁面上部で360度展開されるスクリーンの上を重力の法則を無視した横向きで走っていく姿は、もはや人間とは思えなかった。13億人の国民のうちの一人だという自意識はどんなものだろう?また、13億人から選ばれた代表だという自意識はどんなものだろう?それでも、「私は私」と思えるものだろうか?人間の感性を超えた人数に個人が対峙するのは耐えがたい気がしてしまうのだが。とにかく数のパワーに圧倒され、こんな国と喧嘩してはいけないと畏怖するのであった。