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アルタクセルクセスの王宮址遺跡

アルタクセルクセスの王宮址遺跡

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2005年01月17日
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カテゴリ:映画
 阪神大震災からもう10年か。長いようで経ってみると早いものだ。
 研究室仲間のドイツ人を公開中の映画「アレクサンダー」に誘ったのだが「長いしああいうハリウッドものは見たくないよ」と断られてしまった。前に言ってたのと違うぢゃ無いか。ということで一人で行こうと思っていたらK君も行くと言い出したので、二人で見に行った。

 この映画はとにかく長いし、予告編を見る限り主演のコリン・ファレルはミスキャストのように思えたし、またあまりいい評判を聞いていなかったので全然期待していなかったのだが、まあ思ったよりは良かったと思う。
 特に考証面は去年の映画「トロイ」に比べれば格段に優れている。まあアケメネス朝ペルシア時代ともなると資料が増えるから復元もしやすいのだろう。スペクタクルなガウガメラの戦いやインド象との戦いもまあすごいと思った。最近の傾向らしく描写が非常に血なまぐさく、そういうのが嫌いな方には全くお勧めできない。
 あと戦場が現在のイラクやアフガニスタンで、しかも合戦の前にアレクサンドロスが「自由の為に!」などと演説するシーンがあるのだが、否応無く今のアメリカを連想してしまう。「ヨーロッパ」が「アジア」を征服するという話なので「オリエンタリズム」満点な場面もあるし。
 アレクサンドロス役のコリン・ファレル、その母オリュンピアス役のアンジェリーナ・ジョリーは熱演だとは思うのだが、僕はもっと品のいい人を据えて欲しかった。それとこの二人及び父親のフィリッポス2世(ヴァル・キルマー)以外は性格付けが説明的に過ぎて決定的に弱く、あまり感情移入できない。アレクサンドロスもただの戦争気違いに見えるよ(実際そうだったのかもしれないが)。
 2時間半のドラマにアレクサンドロスの短い(33年)ながら怒涛の生涯を詰め込むのは難しいのは分かるのだが、おホモだちとして描かれるへファイスティオンや妃のロクサネとの絡みは必要だったのだろうか?と思う。ゴルディオンでの逸話(Gordian Knot)やイッソスの戦いが省略されたり、乳兄弟のクレイトスの扱いが小さいのが意外だった。アンソニー・ホプキンスがアレクサンドロスの学友・護衛隊長でのちにエジプト王となってアレクサンドロスの伝記を残したプトレマイオス(=女王クレオパトラの祖先)の老年時代役で出演しており、キャストはまずまず豪華である。
アレキサンダー <通常版>

 関連年表を載せておく(年号は全て紀元前)。
・356年 アレクサンドロス、マケドニア(現ギリシャ北部)王フィリッポス2世と王妃オリュンピアスの長子として誕生
・343年 哲学者アリストテレス、アレクサンドロスの家庭教師に招かれる(~340年)
・337年 フィリッポス、コリント同盟を組織し全ギリシャを支配下に置く。対ペルシア遠征を開始
・336年 フィリッポス暗殺される。アレクサンドロス(3世)即位
・335年 反旗を翻したテーベを破壊し市民を虐殺・奴隷化する
・334年5月 歩兵4万、騎兵6千を以ってダーダネルス海峡を渡りペルシアに侵攻、グラニコス川(トルコ)の戦いでペルシア軍を破る。ハリカルナッソスを攻略
・333年11月 親征してきたペルシア王ダレイオス3世の大軍をイッソス(トルコ)で破る。シリア・フェニキア・エジプトを攻略
・331年 エジプトのシワ・オアシスのゼウス=アムモン神殿で神官に「神の子」と呼びかけられる
・同年10月1日 ガウガメラ(イラク)の戦いでダレイオスの大軍を撃破。ダレイオスは逃亡。バビロン(イラク)に入城しアジア王を名乗る
・330年 ダレイオス、バクトリア総督ベッソスの裏切りにあい殺害される。アケメネス朝滅亡。アレクサンドロスは復仇を宣言しベッソスを追討、イランに入る
・329年 イラン東部を攻略しベッソスを処刑。中央アジアに侵攻しヤクサルテス川(=シル・ダリヤ。カザフスタン)を越える
・328年 ソグディアナ平定に苦戦。ソグド諸侯の娘ロクサネと結婚し東方化政策を開始、ペルシア式の拝跪礼を導入
・327年 東方化政策にマケドニア人が反発、陰謀が発覚し将軍パルメニオンらを処刑。「世界の果て」を目指しインド遠征を開始。酒宴で口論となった乳兄弟クレイトスを殺害
・326年 ヒュダスぺス川(パキスタン)の戦いでインド王ポロスの戦象隊を破る。インダス河に到達。兵士が前進を拒み、ヒュファスシス川(=サトレジ川。パキスタン)で反転する
・324年 スーサ(イラン)に帰還。マケドニア人とペルシア人の集団結婚式挙行、彼自身はダレイオス3世の娘スタテイラと結婚。オピス(イラク)でマケドニア兵の騒擾。ペルシア系総督を大量粛清
・323年6月13日 バビロンにて急死、享年33歳。精神障害のあった異母弟フィリッポス3世が即位する。プトレマイオス、エジプト総督になる。ロクサネ、スタテイラを殺害
・321年 帝国の実権をめぐり親族・将軍たちの内紛が勃発、分裂状態に
・317年 王太后オリュンピアス、フィリッポス3世を殺害
・316年 マケドニア総督カッサンドロス(フィリッポス2世の娘婿)、オリュンピアスを処刑
・310年 カッサンドロス、ロクサネと王子アレクサンドロス4世(13歳。アレクサンドロスの死後に誕生)を処刑、アレクサンドロスの血筋が絶える
・304年 プトレマイオス、エジプト王に即位
・283年 プトレマイオス没する(73歳)

 ヴァル・キルマー演じる父親フィリッポス2世(戦闘で片目を失ったという)は粗暴な人物に描かれているが、弱冠20歳でマケドニア王となり戦争に明け暮れたアレクサンドロスの業績の半ばは、フィリッポスに帰すべきではないかと思う。一代で辺境の弱小国だったマケドニアで経済的(貨幣発行、鉱山開発・都市建設・干拓・開拓)・社会的(人材登用・軍制改革)な大改革を断行し、全ギリシャの覇権を握ったフィリッポスの手腕は尋常ではない。既に古代からアレクサンドロスとは不仲説が取り沙汰されているが、仲は良かったのではないかと思う。
 それを示すのは、ギリシャ北部のヴェルギナで発見されたフィリッポスの墓である。地下式の墓室には豪華な金の矢筒や青銅の武器・容器、銀製の水差し、そしてフィリッポス自身やアレクサンドロスを表現したと見られる小さい象牙の頭部像が副葬されていた(出土品はテッサロニキ博物館に展示されている)。フィリッポス自身の骨も見つかっている。死後の世界に関心が薄かったのか古代ギリシャの墓は全般に質素だが、フィリッポスのそれは最も華麗といっていい。ちなみにアレクサンドロスの墓所はエジプトにあるというが、未だ見つかっていない。

 アレクサンドロスが率いてペルシアの大軍を破った軍隊もフィリッポスが育成したもので、マケドニア軍の中核はぺゼタイロイと言われた歩兵とヘタイロイと言われた騎兵である。アレクサンドロスの作戦指導が優秀だとしても、父の育成した軍隊なしではあの短期間での成功はあり得なかっただろう。
 ぺゼタイロイはギリシャ都市国家の市民軍によるファランクス(重装歩兵による密集陣形)にヒントを得たもので、長さ5m以上(ファランクスでは通常2m程度)の長槍と小型の楯で武装し、密集陣形で槍衾を作って敵に向かう。前4列の兵士は槍を倒して前に向けて敵をアウトレンジで攻撃し、後ろの列では槍を立てて、前の兵士が倒されたときに入れ替わるように備えている。この戦法を実行するには集団訓練が必要で、一種の職業軍人制度ともいえる。はるか後年、16世紀後半の日本では織田信長の槍足軽がやはり長槍を使用しまた兵農分離・兵士の職業化が進むが、それに似ている。馬上での弓射を主とするペルシア兵は全般に軽装かつ統制が取りにくく、重装備のギリシア・マケドニア兵の密集陣形に歯が立たなかった(今日の映画ではその辺はよく描けていた)。
 ヘタイロイは貴族層からなるエリート騎兵部隊で、戦場の局面に応じて臨機応変に投入され敵への最大の打撃力となった。ただし当時の乗馬術では鞍もあぶみも無かったので(そのため少年時代から騎馬に慣れた貴族層に限られた)、走行しながら槍で突くのは不可能であり(衝撃で落馬する)、馬を止めて突いたか下馬して戦った。山がちのギリシャでは騎兵は重視されなかったが、より北方の平原地帯であるマケドニアでは、北方の騎馬民族トラキア人から騎馬術を習ったことは疑い無い。

 ギリシャ文化がアジアに影響を与えたという「ヘレニズム」はアレクサンドロスの東征が契機だったという。しかしそれは一面でしかない。確かに中央アジアにまでギリシャ文化が及びまたギリシャ人の東方への大量移住を促進したが、ギリシャ文化の東方への影響はアレクサンドロスに始まったことではない。ペルシアの首都ペルセポリスやパサルガダエは紀元前6世紀に建設されているが、そこにはギリシャ美術や建築の手法が見られるという。また遅くとも紀元前4世紀初めには、シリアやアナトリア(小アジア)の少なくとも沿岸部では、ギリシャ風の美術品が登場しかなり浸透していたことが窺える。
 その背景として考えられるのは、多くのギリシャ人がアジアに渡っていることがあるだろう。土地が痩せ狭隘なギリシャでは経済発展で増える人口を養いきれず、傭兵や労働者として、経済力のあるペルシアやエジプトに大量に雇われていた。近代のスイス傭兵と通じるものがあるが、ギリシャ人は最強の傭兵という定評があり、エジプト王やペルシアの王子キュロスはペルシアの大王に対して叛乱を起こす際ギリシャ傭兵に頼っている。何よりもアレクサンドロスと戦ったダレイオス3世の軍隊の中には、万単位のギリシア傭兵が居た。
 ギリシャ人は自分たちの文化に誇りを持っていた。そういうと聞こえはいいが、要するに不寛容ということであり妥協性に欠けるとも言える。ギリシャ人がアジア人を「バルバロイ」と蔑称で呼んだ裏返しに、通商の盛んだったコスモポリタンの中近東人から見ればギリシャ人は辺境の田舎者で、世間知らずの田舎者が自分たちの流儀を押し通したのがヘレニズムと言えなくも無い。まあギリシャ文化の偉大さは認めざるを得ないし、現に中東の人々はそれを受け入れたのだが。
 一方ギリシャ文化の中のオリエント(中近東)伝来要素は最近飛躍的に研究が進んできており、無視しがたいものがある。

 アレクサンドロスの成功はもちろん軍事力の凌駕や彼の天才も預かって大きいだろう。しかし征服されたペルシア・中東の側から見れば、200年の統一を保っていた帝国は紀元前4世紀半ばから総督達の叛乱で分裂の危機に瀕しており、マケドニアはそこに上手くつけこんだとも言える。マケドニアが征服しなくとも、アケメネス朝ペルシアが何らかの形でいくつかの地方政権に分裂した公算は大きい。
 むしろ「辺境からの簒奪者」アレクサンドロスをもって、古代中近東の統一王朝であるペルシア帝国の最後の大王と見るほうが正しいかもしれない(現にイランではアレクサンドロスは「イスケンデル」と呼ばれ正式なペルシア王の一人とされている。また彼がダレイオスの娘と結婚したのは、アケメネス朝継承の正当性を強調する必要からだろう)。アレクサンドロスの死後彼の帝国は四分五裂しているが、これは将軍たちの私利私欲ばかりが原因ではなく、中東文明の分裂傾向は征服者たるマケドニア人にも止めることは出来なかったのだろう。
 アレクサンドロスの記憶はローマ帝国に引き継がれたが、5世紀の西ローマ帝国の滅亡と共にむしろ中東や東ローマ帝国(その大部分は中東に属する)で生き続けた。ヨーロッパ人がルネサンスの時代にギリシャ人を自分たちの理念上の先祖と決め、またアジアを含む全世界を植民地化したとき、中東の大王イスケンデルは、ギリシャ=ヨーロッパ文明の宣布者・オリエンタリズムの体現者アレクサンドロスとしての役割を担わされたといえる。





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最終更新日  2006年08月10日 11時56分07秒
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