2016年08月19日(金)晴時々曇
蒸し暑い日が続いている。今回歩くのは 、新宿区の南元町(みなみもとまち)と若葉2・3丁目。地図を見ると、谷筋が何本かあるのが分かる。坂道の多い地区である。09:05 信濃町駅前 、【 東京歩きめぐり 第67回 】を歩き始める。
南元町の「千日谷」を外苑東通りから見下ろすと、谷底との高低差を実感できる。急な「千日坂」を下って千日谷へ。由来解説の標柱には「この坂道の下の低地は、一行院千日寺があるため千日谷と呼ばれた。坂名も千日寺にちなんで名づけられたと考えられる。(後略)」とある。坂下には現在も、一行院千日寺がある。
首都高速4号新宿線とJR中央線のガードをくぐり、「新助坂」を上る。これも急坂。「新撰東京名所図会には、新助坂は四谷東信濃町に上る坂なり、一名をスベリ坂ともいふ、坂の下には甲武鉄道線の踏切隧道門あり、(後略)」と解説標柱にある。甲武鉄道は現在のJR中央線。
新助坂上の高台を少し西へ行くと、「女子学生会館 明泉」がある。戦前、ここには第29代内閣総理大臣を務めた犬養毅の私邸があった。1932年(昭和7年)五・一五事件に遭い、犬養首相は永田町の総理公邸で海軍青年将校の凶弾に倒れた。
急な坂道を下り、再び千日谷の谷底。谷の北側の路地奥は、崖で行き止まりである。みなみもと町公園脇の「鮫ヶ橋せきとめ稲荷」に立ち寄る。かつてこの谷筋には小川があり、紀州徳川家の屋敷内(現在の赤坂御所)を通って、日枝神社下の溜池に流れ込んでいた。その小川に堰(せき)があった場所の祠なので、堰止め稲荷と呼ばれるようになったという。
鮫ヶ橋通ガードをくぐり、「出羽坂」を上る。「明治維新後、この坂上に松平伯爵(旧松江藩主 松平出羽守家)の屋敷が移転してきたため、こう呼ばれるようになったという(後略)」と標柱にある。現在 高台に建つ「東医健保会館」の敷地に、松平伯爵の屋敷はあった。
若葉3丁目、細い路地を進む。路地の奥には「若葉公園」。周囲三方より低い谷地にある。新宿区のHPによると、公園内を流れる水路では湧水を利用しているそうだ。昔 谷筋にあった小川を再現しているのかも知れない。
クルマの入れない路地裏をめぐる。かつての谷筋には、木造2階建ての民家がひしめき建つ。若葉2・3丁目は、1911年(明治44年)まで「鮫河橋谷町」という町名だった。明治時代の東京には「三大貧民窟」と言われる地区があり、鮫河橋谷町はその中で最大の貧民街だった。
因みにあとふたつの貧民街は、下谷万年町(現在の台東区東上野4丁目)と芝新網町(現在の港区浜松町2丁目)。「鉄砲坂」を上る。「江戸時代、このあたりに御持筒組(おもちつつぐみ)屋敷があり、屋敷内に鉄砲稽古場があったためこう呼ばれるようになった(後略)」と標柱解説。
若葉2丁目、「西念寺」を訪ねる。ここは2代目服部半蔵正成(まさしげ)が造った寺で、正成の墓もある。「半蔵」は服部家当主が代々受け継ぐ名で、いわゆる服部半蔵として世間に知られているのは正成である。忍者だったのは初代だけで、2代目以降は忍者ではなかったとされる。
急坂の「観音坂」を下る。標柱には「西念寺と真成院の間を南に下る坂。坂名は真成院の潮踏観音にちなむ(後略)」。坂下は「鮫河橋谷」と呼ばれる谷地、真成院はその谷地にある。谷筋から横に入る路地奥は、谷地ゆえに多くが崖で行き止まり。
「東福院坂」を上る。この坂も急坂。「坂の途中にある阿祥山東福院に因んでこう呼ばれた(後略)」と標柱にある。この坂に面して建つのが「愛染院(あいぜんいん)」。ここには江戸時代中期の盲目の国学者 塙保己一の墓がある。保己一は国文学・国史を主とする一大叢書「群書類従」の編纂者として知られる。10:25 東福院坂上 、【 東京歩きめぐり 第67回 】はここで終わり。
信濃町駅前→東福院坂上:3.8 km