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カテゴリ:幽霊
幽霊 第九回
森之宮が力一杯ノブを引っ張ろうとすると、あっけなく開いて予想外に大きな音を立てた。アンジェが笑っている。かつがれた。さっと顔に血が昇るのが自分でもわかる。しかし顔には出しても声には出さず、落ち着いて問いただした。 「あの音は何だったのでしょうね」 たぶん庭園の柵がちゃんと閉まっていなかったのでしょう、とアンジェはこともなげに言い返してきた。懐中電灯の光がまばらになってきた雪片に反射されたかすかな明かりのなかに、笑いをこらえることに精いっぱいになっているアンジェの顔がぼんやりと照らしだされる。不快感と同時に、悔しいけれどちょっぴり安堵感を植えつけられた森之宮は、大きく息を吐き出すと足早にドアの中へと飛び込んだ。 屋内は外気と同じくらい寒い。廊下や使っていない部屋に暖房がないのは当然なのかも知れない。二人の着ていたコートの表面についた雪は屋外にいる時からすでに溶けていて、まるでにわか雨にでも逢ったように濡れている。1階の森之宮の部屋まで戻ると、ドアを開ける前にアンジェがそのコートを器用に脱いでばさばさと振り回す。こうして外で水気を払っておかないと部屋の中が湿りますという。ヨーロッパ人にとっては、自分に与えられた部屋のドアが境界に相当するのだということがわかった。森之宮にとってはホテルの玄関ドアがそれに当たるのだが。 こうして探検から戻ってすっかり冷え切った体を温めたのは父親アドバイスのブランデーだった。アンジェは受け取ったコップをベッドサイドの照明にかざすと、あまり高級ではないグラスですね、と言って2フィンガー分を一気にあおった。でも中身は上等です、と、グラスをテーブルに戻しながら付け加えた。 一息つくと、アンジェが挑発してきた。城塞を背景にした肝試しは無事終わったけれど、実はこの城自身にも肝試しをする場所はまだまだ隠されている、たとえば、塔、タワーといえば、美しい姫君が幽閉されているところと相場が決まっています、と言うのだ。 ホテルについて、正面から見あげたときに既に気づいていたのだが、玄関の上に確かに塔がある。持ち前の好奇心から、チェックインしてすぐに出かけた探検の際にはどうしても入口が見当たらなかった。しょうがない、あまり乗り気はしないのだがアンジェに案内してもらうことにした。手をつないでそのまま3階まで階段を上がる。一度来たフロアだ。最前はここで立ち往生したのだった。しかし今回も森之宮の目にはどこにもその上の階に上がる階段らしきものは映らない。客室もここまでのようである。 ところがアンジェが森之宮の手を引いてそのまま階段正面にある客室のドアを開けた。中は真っ暗だが、どうやらいわゆる客室ではないようだ。1階や2階と同じような少し小さめのバンケットルーム然としていて、今は机や椅子が片付けられているせいでがらんとしている。真っ暗でも外から入ってくるかすかな光と二人が照らしている懐中電灯のおかげでそのくらいはわかる。アンジェが握っている手に力が入って、部屋の右隅に引っ張られていく。真鍮のレバー型のノブがついたアーチ型のドアがあった。アンジェは何のためらいもなくそのドアを押した。と、隠し階段が続いていた。これでは一見(いちげん)さんにはわかるわけがない。 4フロア分くらい昇ると、これが最後なのだろう、鉄のはしごが天井に向かって伸びていた。耳元でKimiが先か、私が先か、とささやく。息が耳の穴にかかってくすぐったい。先に行かなければ男の子じゃないと思って、森之宮は鉄の横バーを握った。 天井はちょうど梯子の上の一部が跳ね上げ式になっていて、音をたてないようにそっと開けて頂上に出る。すぐ下から息一つ切らせずに続いてくるアンジェの手を最後に引っ張り上げて男らしいところを少しは見せて、地上25メートルくらいある物見塔にやっとたどりついた。 ほとんど風がないのだが、さすがに午前2時を回っているのでしんしんと冷えてきた。天気は目まぐるしく変わっているようで、霧が少し切れ始めている。雪はとうにやんでいる。暗いながら、それでもだいぶ見通しがよくなってきた。北方遠くになんとなく街の灯が見える。それに引き替え南側は真っ暗である。視界は確かに360度開けている。さすが物見の塔である。 と、突然アンジェがJe suis en chaleur.(ジュスイアンシャリュール、私は熱い)とささやいて体を密着させてきた。確かにそうすれば寒さはいろいろな意味で和らぐ。森之宮が羽織っているのはほとんどレインコートのように薄い化繊のバーバリで、アンジェのは手触りがすべすべしていて素人でもすぐに上等だとわかる白いカシミヤだった。どちらかといえばアンジェのコートにくるまれたほうが温かいのだが、ここは見栄を張ってでも自分のコートの前を開いて受け入れることにする。少し腰をかがめて、お姫様は見つかりましたか、と言うせっかくのアンジェの問いかけには答えず、森之宮は眼下に広がる闇の中を指さした。 城塞内に点在する街灯にぼんやりと照らされている木々が、まるでお互いに謀ったように突然音もなく一斉に葉を散らし始めたのだ。すると森之宮の驚きを察したようにアンジェが言った。あれは単に散るのではないのです。散らす順序も速度も決めているに違いないのです。木々は土でつながっているのです。散らすのにもハーモニーがあると思いませんか。木(Arbre)は、ちょっとエロチックです。森之宮は同じような表現を日本語で読んだことがある(*)ような気がした。その時はずいぶん気障な言い方だと思ったが、目の前でアンジェがつぶやくのを聞くと、なんとふさわしい表現なのかと感心してしまった。単純なものだと自分で思った。 寒かった。二人、目を合わせるとどちらからともなく今は床になっている跳ね上げ天井の板を見た。降りるときもレディーファーストなのだろうかと思っているとアンジェが森之宮の方を見るので、これは先に降りるのが正解だと悟った森之宮が先導することにした。 部屋に戻って再びブランデーのお世話になろうとしたとき、机に放り出してあった単行本をアンジェが手に取った。これは何かという。「人間臨終図鑑」というタイトルで、ある年齢で亡くなった古今東西の有名人の小話が集めてあります、と解説した。 受けた。アンジェが尋常でない興味を示した。 わたしは24歳だというので、20代で死んだ人々のあたりを目次で拾うと、カタカナ名前がただ一人載っていた。ジェームス・ディーンである。それも、24歳没との ことである。ああ、私と同年でしたか、では私ももうすぐでしょうか、とけらけら笑いながら言う。この屈託のなさは天使のそれであろうかと森之宮は思った。 とたんに、この明るさはまるで天使のようだと思ったのではないでしょうか、私の名前はアンジェですから、そもそもアンジェがアンジェ(天使)のように語るのは当然なのです、私はアンジェです、と言う。自分と自分以外の区別、森之宮とアンジェ自身の区別があいまいなように感じられる。目がくるくる動く。アンジェの印象が小動物、そう、リスか何かに似ているような気がしてきた。 3時を過ぎた。 「明日、土曜日ですが、城塞とサキソフォンで有名なD**市に行こうと思うのですが、ご一緒していただけますか」だいぶ酔いも手伝って、今晩2つ目になる『清水の舞台』的問いかけをした。 こたえはつれなかった。乗馬の練習があるから行けません、そう言うと下を向いてくすくすと笑った。あしたとあさっては週末ですからホテルの仕事はお休みです、(毎日がお休みでもいいのですが)D**市はこじんまりしたきれいな町ですから、きっとよい印象を受けるでしょう(5分で終わります)、お一人で訪ねることをお勧めします(たいていは団体です)、郊外にはいくつかの小さな城がありますので、(見たってつまらないのですが)そちらも観光には適しています、(商業化されていますが)という時のアンジェの口調はまるでガイドブックを棒読みするような英語で、かっこ内に訳出した部分はなぜか低音のフランス語で解説のように語った。両方英語、あるいはフランス語なら意図も理解できるのだが、建前を英語、本音と思われる部分をフランス語でしゃべる意味が森之宮にはピンと来ない。 しかしそのピントが合わないもやもやをただす間もなくアンジェが両手で森之宮の両腕をとらえると、もう一度、生きている人の目を見せて下さい、と言った。森の宮の返事を待たずに再び、アンジェの高い鼻と森之宮の低い鼻が触れる。思いがけないほど長い舌が出て来ると、続いてルージュの引かれていない唇が森之宮の唇をとらえた。 思わず目を閉じてしまった。ふふふ、というのが聞こえる。アンジェが笑いかけているに違いない。黒い瞳を見せなさい。 再び目を開けると、今度はアンジェが腰をかがめて目を閉じている。自然に腕を回して唇を重ねる。隙を作ってもらった格好だ。ところが森之宮はうかつにも再び目を閉じてしまった。アンジェの、獲物から目をそらすなんて狩人としては失格、と言うことばにあわてて目を開いたときには、獲物は腕の中から抜け出す動きをしていた。それすら止められない。 オールヴワール(さよなら)、と言いながら天使が去っていくのを地上の少年は力なく見送った。かちゃり、と気を使いながらドアを閉める音がした。 着替える気にもならずにベッドに座ると、森之宮は黄色い表紙の仏和中辞典を開いた。 「Je suis en chaleur.」は、『私は発情している』という意味だった。 眠れそうにない気がした。 (*)小林秀雄「中原中也の思い出」 人気blogランキング投票よろしく 今日はどのへん?。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2009.01.31 17:22:32
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