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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2009.03.28
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カテゴリ:幽霊
幽霊  第十五回                  朝吹龍一朗

 どうしてvousなのでしょう、どうしてtu(おまえ)と言ってくれないのでしょうか。これ以上膨らまないというくらい大きくほほをふくらませたその顔は、どこかの教会で見たエンジェルの姿そっくりだったので、森之宮の高揚は一気に収束した。

 森之宮は余裕を取り戻して言った。
「Je t'aime!(ジュテーム) C'est bon dans ceci?(これでいいですか)」
 Tres bien!!(トレビヤン。とってもいい) 屈託ない声でアンジェが答える。再び体を返して森之宮の両肩に手を置くと、伸びあがって顔を近づけてきた。夢に見たキスだ。

 森之宮はわかっていても目をつぶってしまおうかと思ったとたんに馬車が停まった。
キスは、お預け。

 降り立ったのはN**市で一番古い教会前の小さな広場に面した小さなレストランの前だった。N**市最大の目抜き通りであるアンジェ通りのすぐ裏側にあたる。
「おまえ(森之宮はこのときから親称であるTuを使いだした)の名前と同じだね」

 アンジェの足が止まった。
 そうです、通りにはところどころにラッパを吹きならす天使の像があります、天使が吹くラッパの意味が非クリスチャンにわかりますか、非カトリックにわかりますか、カトリックという表現の意味を知っていますね、カトリックは『Universalite、普遍』という意味です。

 ここまでまくしたてるようにしゃべったあと、店のドアを押して静かな店内に入った。考えてみれば、日曜日の晩に開いているレストランなんて、こんな田舎町ではありえないことなのかもしれない。店内に他の客はいなかった。勧められたテーブルに着くや否や、アンジェは再び独り言のように話し始めた。ただし今度はゆっくりと、自分に向って何かを確認するような話し方だった。

 私の意識はKimiの意識でしょうか、違うみたいですね、Kimiと私は違うのですね、不思議ですね、どうしてでしょうね、いつも私の心は他の人から見透かされているのに、ほかの人や、たとえばこのテーブルや、ワイングラスや、テーブルクロスは私の一部だったのに、今日は違いますね、私は、わたしなのですね、なんだか不思議、Kimiと会ってから、それまでと違うのです、普遍だった私が、わ・た・し、になって来ました、Kimiったら私が考えていること、わからないでしょう、つい数日前まで、私の周りの人はみな、私の悪口を言ったりテレビに告げ口をしたり、椅子と私がくっついたりしていたのですが、 Kimiと一緒だと、自分が自分になったような気がします。

 アンジェはここで、沈黙した。
「天使がラッパを吹くのは、必ずしも最後の審判の日だけではない。受胎告知の時も、キリストの復活の時も、きっと吹いていたはずだ。そう、狩りの時も吹くのではなかったかな」

 森之宮はほっとした。アンジェの顔に微笑みが戻ったからだ。さあ、ジビエを食べましょう、ギャルソン! さっきから隣に控えているのに、店中に響き渡るほど大きな、でもうっとりするようなメゾソプラノでアンジェが言った。

 でも、Kimiはどうしてジビエなどという特別な名詞を知っているのでしょうか。
 ジビエ! 森之宮はちょうど日本を出てくる直前に読んでいた、古庭蔵保好という人の書いた一種のグルメ本(*1)の話をした。ご夫婦で世界中のおいしいものを食べ歩く話である。そういうわけでジビエのメニュー(定食のこと)を頼んだ。

 すると、アペリティフは何かとギャルソンが聞いてくる。森之宮は全く考えていないので、Veuillez apporter la liqueur que vous pensez etre bon. いいと思う酒を持ってきてくれ、と頼んだ。

 出てきたのは、『La tentation d'un ange 天使の誘惑』という酒だった。続いて、この酒にはつまみとしてイチジクが合うのだという。ヘビは、天使です、と、哲学者からほど遠い顔をしたギャルソンが澄ました顔で言った。

 メインディッシュの『ジビエ』は野生の肉、Marcassin(子供のイノシシ)だった。ジビエはその名の通り、狩ってきた肉なので、その晩何が供されるかは、モノが出てきて見ないとわからない。

 イノシシなら日本ではボタン肉というのだというと、どうしてイノシシに対してボタン(pivoine)のような美しい花の比喩が用いられるのでしょうか、と詰め寄られた。いや、馬は桜肉だし、鹿はモミジだと言うと目を丸くした。そういえば、イノシシのことは別名山クジラと言うのだと付け加えると、さすがの日本通ぶっていたアンジェも笑いだした。江戸時代の日本人は獣肉食がタブーだったこと、しかしおいしいからたとえば山の「クジラ」だとして、あるいはウサギは耳を羽根に見立てて「鳥」だとしてひそかに、一部おおっぴらに食べていたと解説をすると、ナイフもフォークもテーブルに投げ出して大笑いが始まった。

 おなかがよじれる、と涙を流しながらひとしきり笑うと、すぐに残りの肉に食らいついた。マウンテン・ホエール、わかりましたよ、日本人の本質が、でも、おいしいものはおいしいです。無邪気な健啖ぶりを見ているだけで森之宮はおなかがいっぱいになってしまう気分だ。

 結局アンジェは全部食べた。森之宮も食べるには食べたが、味は全く覚えていない。馬鹿話の合間に器用にナイフとフォークを操るアンジェの手元と、フォークに刺さった肉片を切り裂く白い歯と、ワイングラスの細い脚をそっとつまむ華奢な指と、それに吸い込まれそうな青い目に映って揺れているろうそくの灯を見ていた。

 時々手が止まる森之宮に、C'est bon, ou pas? (おいしい? そうでもない?)とアンジェが問いかけた。
「美味しくないわけがない、だって、おまえ(Tu)と一緒だから」
とかろうじて答えると、KimiはきっとZense(前世)、と日本語で言ってから、Existence anterieureとフランス語の直訳で言い直し、次いでformer incarnation、previous lifeと英語で説明した。ああ、いつのまにか私はフランス語で話していましたね、困らせてしまいましたね、Zense、私の知っている日本語です、 Kimiは前世できっとフランスのジゴロ(gigolo)だったに違いありません、ジゴロは女を口説くとき、いいことはなんでも女のせいにするんです、そうしてうれしがらせて女を自分のものにするんです、Kimiもそういう悪人なのでしょう、でも悪人こそ天国に行けるのでしたね、Shin'ranがそう書きました、フランス語訳で読みました。

 うーん、親鸞か。理科系の森之宮は大学の教養課程での日本史の授業を思い出した。例の美人が出席しているのを見つけて、履修届もしていないのに聴講し続けたのだった。もちろんアンジェにそんな話をするはずもなく、そのままデザートにベルギーらしいホットチョコレートをバニラアイスクリームにかけた、それでいて甘さ控えめの上品な一皿を迎えてお開きになった。勘定は思いのほか安かった。もちろん森之宮が払った。

 外にはすでに馬車はいない。酔いざましにまたシタデルを登っていって、いわくありげだった「濡れた石」を見ていくのもいいかと思っていると、するするとタクシーがすり寄ってきた。Veuillez m'epouser(結婚して下さい)くらい言えるだろうか。


(*1)1997年に出た「骨の髄までうまい話」という本で読んだことを白状しておきます。
 したがって本当は、この小説に描かれているこの時点(1986年)には刊行されていませ
ん。
                             


                                (続く)

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Last updated  2009.03.28 20:09:08
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