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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2009.07.05
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カテゴリ:柳絮とぶ
柳絮とぶ その1
                            朝吹龍一朗

 Buono!(美味しい!)と、人差指で押した頬の凹みががゆっくりと戻る。
 二人して都心のイタリアンレストランでとびきりのワインを傾ける。銘柄はエストエストエスト。直訳すると、ここ、ここ、ここ、という感じかな。ぼくの恋人は70歳のおばあちゃんだ。

 ある年の遅い春、土曜日の朝。お誂え向きの霞がかかり、日差しは暑くもなく淋しくもない。風速1メートル、何もしなければ感じないが、もし汗でもかいていればすうっと乾かしてくれる程度の絶妙な塩梅。そんな日、ぼくは世田谷の中小河川を暗渠にした緑道を散歩していた。

 道の真ん中に土の島があり、高さ20メートルくらいのかなり大きな木が、巨体の割に優しい雰囲気を見せて育っていた。赤くて繊細な花が咲いている。樹木全体が穏やかな表情をしているのはこの不似合いなほどかわいい花のせいだと思う。
 根元を見ると、「ベニバナ栃の木」と書いた札が刺さっている。ふうん、ぼくは初めて見るそのベニバナ栃の木という名前の木を、花を見上げていた。別に急ぐわけでもない、散歩のついでである。ただ珍しいから気が抜けたように見ていた。

「あら、きれいな花、なんていうかご存じ?」
 少し高めの、そう、歳とってキーが下がったソプラノ歌手くらいの声。振り向くと白いつば広の帽子を少しあみだにかぶって薄いピンクのレース柄のブラウスを羽織り、やはり白い重ねロングスカートをはいたご婦人が自転車から降りてぼくに微笑んでいた、首を右にかしげて。
「ベニバナ栃の木です」
「よくご存じですね」
「いや、下に、名札が」
「あら。でも何年も通っているのにこんなにきれいな花が咲くなんて知らなかった」
「パリに行けばマロニエ、ですよね」
「あら、マロニエは鈴掛けの木じゃ」
「スズカケはプラタナスですね」
「あ、そうかそうか、デイケアセンターの前にあったっけ。これからどちらへ?」
「散歩ですから。この辺は初めて足を向けたので、どこへどうというあてはありません」
「じゃあ、お茶でもいかが。うちはすぐそばなんだけど、何なら行きつけの喫茶店でも。ああ、もちろんわたしがごちそうするから」

 大学院の後期課程に進学したばかりのころだった。たしかにお金には縁のなさそうな顔をしていたかもしれないが、それにしても、とおもいつつ、しかし下手するとぼくのおばあちゃんに相当するかもしれない年齢に見えたから、ごくごく明るく返事をして自転車の後をついて行った。
 彼女の夫はしばらく前に脳卒中で倒れ、老老介護の日々だそうである。週に何度か、近くにある介護施設に預け、自分は束の間の休日を楽しむのだという。

「結婚してからもしかしたら初めての休日かもしれないのよ、だって主人は居職(いじょく)だったから、毎日毎日、家にいたしね。結構旅行もしたけど、ほとんどは主人の取材を兼ねてるから、ほうぼうでいろんな人と会ったりするの。そのたんびにわたしはきちんと和服を着ておもてなしをしなきゃいけないしね、休日だよって、主人は言うんだけど、わたしにはちっともお休みっていう感じがしなかったな」
 行きつけ、というコーヒーショップは経堂駅のそばにあった。彼女は初対面のぼくに向って屈託なくそんな話をした。ぼくはぼくで、およそ就職口がなさそうな文系の博士課程に進学したこと、九州の親元から離れてもう3年も帰っていないこと、正月はともかくお盆に帰らないので今では友人たちも含めてぼくのことを非国民扱いしていること、そして、この歳になっても心を許せる異性の友達がいないこと、などを、なぜか屈託なく話してしまった。

 別れ際、
「今度、電話していいかな、携帯の番号教えてくれるかな」
 病人ほど青白くはないが、透き通って向こうが見えてしまいそうなほど白い頬を桃色に染めながら彼女が言った。切れ長の目は少女のように輝き、手入れはしていないと思われるのにすべすべとした肌には老人斑も出ていない。ちょっと薄暗くて老眼だと本を読むには苦労しそうな店内にはぼくたちのほかには誰もいない。
 ぼくは、低めのテーブルの上に右を上にしてきちんと揃えられた手を取って、
「君の名前と住所と連絡方法を教えて欲しい」
 と言った。
 喫茶店の外はもう夕陽に近かった。                 


                                柳絮とぶ 続く

 

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Last updated  2009.07.05 11:28:40
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