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朝吹龍一朗の目・眼・芽

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2009.08.31
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カテゴリ:女の不思議男の謎
高いところ     女の不思議男の謎
                            
                              朝吹龍一朗

 東京へ転勤になったのだが、子供の学校やら手続きやら、その前に社宅の空きがないなどもろもろの障害が重なって、20年ぶりくらいの独身の夏を迎えることになった。家族たちはどうせそのうち東京住まいになるのだから出て来ようとはしない。むしろ最後の田舎の夏を満喫したい感じだ。大森邦彦にとっては東京は故郷でもあるし、両親も健在だ。4月の赴任以来、まあ、ざっと2週間ごとには顔を見せた勘定になるだろうか。母親は大喜びだったから一種の親孝行としてもいいタイミングだったのかもしれない。

 しかしせっかくの夏である。近頃は会社も余裕があるのか単に世間体をはばかっているのか、夏の長期休暇を奨励するようになった。なに、長期と言ったって、高が1週間にすぎないのだが、それでも邦彦の趣味である山登りには手ごろな長さではある。これを利用しない手はないので、あれこれと考えた末、北アルプスでも秘境と呼ばれる雲ノ平に単独行することにした。

 昔と違って山小屋も完備しており、その上金で労力を買うこともできる年齢と立場だから、邦彦は5泊の道のりを10キロも背負わずに済ますことができた。もちろん山は素晴らしかった。まるで邦彦を避けるようにして台風は朝鮮半島に向かってしまったし、高山植物も雪渓も、例年より遅くまで辛抱して邦彦を待っていてくれた。

 麓の温泉に一泊して、そのまま単身赴任者寮には寄らずに老親の家に向かった。途中から電話して昼過ぎには帰れると告げておいたので、着くと既に食卓には近所の寿司屋から取った特上握りと冷えたビール、それに枝豆やらトマトやら焼き鳥やらに混じってイワシのみりん干しが並んでいた。邦彦の好物であるが、父親は足尾育ちのせいかあまり好まない肴である。

 ひとしきり山の話をしたり、就職する前にあったいろいろなこと、今だから笑って話せるような、その当時は邦彦にとっても母親にとっても結構深刻な事態に陥っていたことなど、息子と母親の会話が主体で、酒も進んだ。珍しく普段飲まない父親も顔が赤くなるくらい付き合ってくれた。

 母親がたわむれにリュックを持ち上げて、
「昔に比べたらこんなに軽くてもよくなったのね、昔は40キロも背負って行ってたでしょう、これなら歳相応で、いまの邦彦ちゃんでも大丈夫なのね」
 と言った。邦彦はふと、駅で見かけたマッサージのちらしを取り出して、重い荷物を背負ったからそういえば肩がこったと言った。3歳のころ邦彦は重い椎間板ヘルニアに罹り、毎週母親の駆る自転車に乗せられて病院に通っていたことを思い出していた。
 この子は歩くのにも不自由するかもしれません。たぶん山登りなんて一生できないでしょうと医者に言われたらしい。長じてまさか息子が登山を、それも結構本格的な岩登りをも嗜むようになるとは思わなかったようだ。だから登山と聞くと何も言わずに送り出してくれた。自分も若いころ登山をしていた父親は、そこにある危険を天秤に掛けていつもしかめつらをしていたのと対照的だった。

「もうママの力じゃ邦彦ちゃんの肩こりはほぐせないから行ってらっしゃいよ」
 と母親は気安く言ったが、父親はひとこと、へんなところじゃないだろうな、と暗い声を出した。邦彦は母親がはっと顔をしかめたのを横目で見ながら、そんな歳じゃないよと言い訳をしながら腰を上げた。

 マッサージから戻ってきた邦彦に、
「どこ行ったっていいじゃないよねえ、自分だって好き放題やってきたんだしねえ」
 と、父親には聞こえないように母親が言った。
「そういうところ、行ったっていいのよ。お金なければママが出してあげるし」
 内緒話でもするように邦彦の肩をなでる母親をいささか鬱陶しい思いで邦彦は見るともなく見ていた。


 直後、思いがけなく心筋梗塞で父親が亡くなり、もともと丈夫でなかった母親がだんだんぼけてきたという妹のご注進があったので、晩秋のころ母親を連れて新しくできた丸ビルに見物とぼけ防止の刺激を兼ねて食事に行った。最上階からの眺めを満喫し、フランス料理も堪能した後、男ものの財布を母親が差し出した。父親が使っていたものではない。たぶん新しく買ったに違いないハートマンのマネークリップウォレットだった。10万円くらい新札が丁寧に折ってはさんである。
「男の人が払うんでしょ、邦彦ちゃんのお財布、こないだの山登りの時によれよれになっちゃってたでしょ、だから外身(そとみ)も新調したらどうかなって、ママ思ったの。それ、ベルティングレザーだから使い込むとあめ色になって風格が出てくるのよ、それまでママ、生きてるかどうかわかんないけど」

 だいじょうぶ、うんと長生きできるよ、と言いたいところだが、妹にしても邦彦にしても、母親を引き取るわけには行かないそれぞれの家庭の事情がある。しかし聞くとこの財布を求めに一人で三越まで行ったというのだから、目標さえあればそう簡単にはボケないし、元気も維持できるのではないかと邦彦はつい楽観的なことを考えてしまう。

 帰りはタクシーでもよかったのだが、来るときは地下鉄だったから今度は中央線で帰りたいと言う。丸ビルからは大して歩かなくても済む距離だ。ここは東京駅でもおそらく一番高いところにあるプラットホームではなかろうか。あそこで食べたんだよ、などと邦彦が指さす方を熱心に母親は見つめている。その視界を遮るように銀色の車体が滑り込んできた。オレンジ色のラインがかろうじて昔と同じ中央線であることをうかがわせる。黒い吊革に母親が目を見張ったのがわかった。

 土曜日の昼下がりである。絶対座らないというシルバーシート以外にも空いた座席はいくらでもあるのに、なぜか母親は吊革につかまって立っている。ほとんど停車時間なく走り出した電車の窓から外を見ていた母親が思い詰めたような目で邦彦の方を振り返った。

 丸の内に通う邦彦にはごく見慣れた風景なのだが、中央線の快速が東京駅に出入りするとき、しばらくの間下手に新幹線を見下ろすことができる。母親が振り向いたのはちょうど東北新幹線が発車して、白い列車の屋根を見下ろすことができるタイミングだった。西日が当たって電線までもが存在感を示している。

「あの時、邦彦ちゃんと一緒に、あの上のホームに停まっていた電車に乗って行っちゃえばよかったのにね。ママ、乗る電車、間違っちゃったのよね」
 母親はこれだけ呟いて、邦彦の胸までしかない小さな体を持て余すように預けてきた。この歳になっても下着抜きで羽織っているだけのシャツが濡れてくるのが感じられる。泣かない女だと思っていたが、邦彦も母親が今眼前に思い描いているのと同じ光景を見ていた。辛うじて涙はこぼさずに済んだ。

 40年近く前、両国駅だっただろうか。地上にあるホームで東京から房総へ帰る電車を待っていた邦彦は、目の前にある甲府方面に向かう列車が発着するホームを見ていた。自分のいる高さと違う。ちょうど2階くらいの高さにあるホームだった。なかなか来ない電車を待ちくたびれた邦彦は、既に到着していた特急列車を見上げ、あっちの電車に乗りたいよう、上の電車で行きたいよう、と駄々をこねた。父親は何も言わずに渋い顔をしていたのを覚えている。母親は幼い妹の手をしっかりと握り、
「邦彦ちゃん、そんなこと言わないでね、ママたちが行くのはこっちなの。パパがそう決めたんだからね」と言った。

「さ、邦彦ちゃん、上に停まっていた列車に乗って、これから、どこ、行こうか。ママと、邦彦ちゃん。終点まで行こうよ」

 たぶん、これが、最後の親孝行かもしれない。邦彦はこの中央特快が大月行きであることを確かめ、母親の小さな肩を抱いてシルバーシートに並んで腰を下ろした。

 母親と一緒に温泉に浸かるのも悪くないかもしれないと思った。

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Last updated  2009.08.31 21:12:27
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