探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -4
部分地図を借用し位置関係が分かりやすいようにカラーの丸を追記しました。紫色と黄緑色の丸が宇治陵No.32とNo.33の所在地です。一旦坂道を下り、府道7号線に引き返して、次は木幡小学校(赤丸のところ)を目指します。木幡正中の交差点で府道242号線(二尾木幡線)に入ります。最初の信号機の所で、左折し北に向かえば宇治市立木幡小学校です。地図(Mapion)はこちらからアクセスしてご覧ください。 「木幡小学校」校門横に、「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」と記された標識が立っています。 校門前の道路を時計回りに回り込むと、もう一つ西向きの門があります。こちらの門傍にも、「この附近 藤原道長建立浄妙寺跡」の標識が立っています。案内板が設置されています。残念ながら読みづらい状態になっています。判読してみました。「木幡は、藤原師実の別荘である京極殿、藤原基房の別荘の松殿、あるいは藤原氏の陵墓である宇治陵など、藤原氏との関わりが深い土地で、浄妙寺もその一つである。 浄妙寺は、藤原道長が藤原氏一門の菩提をとむらうため、寛弘2年(1005)に建立した寺で、別に木幡寺とも呼ばれている。 伽藍は三昧堂・祠堂・鐘楼・客殿・僧坊・多宝塔などがあり、仏教道場としてのかたちを整えていたが、中世の戦乱期に兵火によって焼失したと考えられている。この浄妙寺跡は、木幡小学校付近と考えられていて、昭和42年小学校が建設される時、事前に発掘調査を行い、三個の縁束石をのこす、方形基壇と瓦片を多数発見、それぞれの特徴から、寺の三昧堂跡と推定されている。 昭和57年3月 財団法人 宇治市文化財愛護協会」(案内文 転記)脇道に逸れます。この昭和42年の浄妙寺跡の発掘調査は、宇治市で行われた最初の本格的な発掘だったと言います。この時、小川跡と三昧堂跡が発見されました。その結果、「校舎を寺跡の南端となる川跡よりさらに南に建設し、寺域は校庭とする。遺跡全体は校庭地下に保存する」(資料1)という決定がなされ、現在の校舎が建っているそうです。上掲の校舎の北側の校庭(運動場)の地下に遺跡が眠るということになります。その後1990年(平成2)の校庭の排水暗渠工事に伴う調査、2003年(平成15)からの夏休み期間中の計画的な発掘調査(史跡指定に向けた範囲確認調査)、2009年(平成21)12月からの木幡小学校増築に伴う事前調査が実施されています。(資料1,2)その結果から、以下の事項が明らかになっています。*三昧堂跡は、一辺15.7mの方形大型亀腹基壇で、三間四面の規模である。(資料1)*三昧堂亀腹基壇の上に礎石の遺存はなく、根石が残されていたにすぎない。 縁束礎石は北・東で比較的残存していた。 (資料1)*三昧堂跡の埋没土層には3層の火災層が検出されている。三昧堂の再建が繰り返された。 1期:道長による1005年の創建。檜皮葺と推定。 焼失。 2期:12世紀前半(平等院の改修、金色院建築の頃)に河内系瓦葺で再建。 焼失。 3期:13世紀後半期 中世瓦葺三昧堂を再建。 ⇒ 1462年の一揆で焼亡。(資料1)*三昧堂と多宝塔が、基壇面に段差をもって建立されていた。 (資料1) 多宝塔跡は三昧堂に東接していて、平坦面で約40cm高い。自然地形の削平による。*旧堂の川流路の約6m北側で、東西方向に伸びる築地跡が検出された。(資料2,3)*基底で幅1.5mの築地塀があり、幅1.2m~2mの2本の側溝に挟まれていたと推定。(資料2.3) 参照資料2からの引用ですが、「浄妙寺推定復元図」です。左が三昧堂、右が多宝塔。参照資料1にも掲載されていて早川和子画です。藤原道長は998年(長徳4)に源重信夫人から宇治院を買得し、宇治別業を整備します。後に平等院となるところです。そして、1005年に一門の菩提寺として浄妙寺を創建したのです。寺地の選定には陰陽師安倍清明などがあたり、造仏は康尚、扁額と鍾銘の書は当時の三筆の一人と言われた藤原行成が担ったという記録があるそうです。(資料2)元に戻ります。木幡小学校の校舎の周縁を南から西に回り込み、北に向かう道路に出ます。 北への道路から木幡小学校の西側の門を眺めた景色 お地蔵さまの小祠があります。道を北進します。 北側は「のぼり児童館」、南側は「茶園」がある東方向への道路に右折して、坂道を上って行きます。 途中で、「赤塚第一墓地」の表示とその手前のお地蔵さまの小祠が目に止まりました。 格子扉の左側に、真言が掲げてあります。「おがみかた」として、ひらがながふられています。格子扉のガラスが反射して、お地蔵さまが十分には拝見できませんでした。途中の住宅地を通過し、丘陵地の一番上まで上ります。 宇治陵No.34の石標が坂道の入口に立っています。 宇治陵No.34 陵墓域の奥への小径だけが見えます。 宇治陵前から西方向を眺めた景色です。江戸時代には、この辺りから眼下一帯に茶園と宇治街道を眺め、南西方向に宇治川、その先に巨椋池が広がり、太閤堤が遠望できたのでは・・・・・そんな風景を想像したくなります。坂道を下り、元の道路に右折して北を目指します。 御蔵山商店街の通りと交差します。この商店街の通りを西方向に下って行き、左折すればJR奈良線の「六地蔵」駅に到ります。六地蔵駅からこの商店街の通りを東に進んできたら、この十字路の北西角の建物の「HORI DENTAL CRINIC」が目印になります。道路を横断し北に進みます。 左側に東西方向の道路があり、それらしき生垣が見えましたので近づいて見るとこちらはどうも陵墓の境界側面だけのようです。 南西角と思える個所に、お地蔵さまの小祠が祀られています。漆喰壁面、瓦屋根の頑丈なお堂です。 ここのお地蔵さまは化粧をされてはいませんでした。元の道路に引き返し、さらに少し北に進むと、 左側、民家の間に通路が見え、道路傍に鉄扉が開いています。 参道に入り突き当たりまで行くと、探訪最後の目的地です。 右奥方向を眺めると樹間に大きな岩が見えます。何かは不詳。 宇治陵No.35この宇治陵は木幡(御園)に所在します。宇治陵分布図では北端に位置する陵墓です。 (資料1)さて、初回にに引用したこの宇治陵分布図に戻ります。北端の宇治陵No.35から宇治陵巡りをするなら、JR奈良線六地蔵駅(空色の丸)あるいは京阪電車宇治線六地蔵駅(紫色の丸)が最寄り駅になります。宇治陵分布の基点となる宇治陵No.1(赤丸)からスタートするなら、JR奈良線木幡駅(黄色の丸)もしくは京阪電車宇治線木幡駅(黄緑色の丸)が最寄り駅です。南西端の宇治陵No.14から始めて、宇治陵の集中する南部域をまず巡るなら、この地図の南辺より少し南に位置するJR奈良線黄檗駅、京阪電車宇治線黄檗駅で下車して、府道7号線を北上すると便利です。丹念に全てを巡るとしますと、結構程よいウォーキングの距離になると思います。丘陵地を上下して移動しますので、ハイキング気分も満喫できることでしょう。これで宇治陵巡りを終わります。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 『日本の遺跡6 宇治遺跡群』 杉本宏著 同成社 p26, p31-392) 「浄妙寺跡発掘調査の概要」 宇治市3) 浄妙寺跡 :「京都平安文化財」補遺浄妙寺(宇治市) :ウィキペディア藤原道長 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -1 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -2 へ探訪 京都府宇治市 宇治陵とその周辺 -3 へ