探訪 大阪・枚方市 牧野を歩く -1 御殿山・渚院跡・西雲寺
9月に「関西史跡見学教室33~大阪・牧野~」という講座に参加し、牧野の史跡を探訪する機会を得ました。その復習と記録の整理を兼ねて、ご紹介します。当日は京阪電車「御殿山駅」の駅前に集合し、史跡を探訪しながら牧野駅までの探訪しました。集合時刻に少し時間があったので、御殿山駅のすぐ近辺を少し歩いてみました。 駅の傍に設置されていた御殿山駅周辺の地図です。冒頭の右の写真は、駅を出て、駅の東側の広場(/ロータリー)から少し北に歩いたところでの北方向の眺めです。京阪電車の線路に沿って、黒田川が流れています。駅前の広場のところは川が暗渠になっているようです。 広場の手前の歩道傍に「ウォーターモニュメント『NAGISA』」というタイトルの説明碑が設置されています。「ここ御殿山のあたりは、古くから淀川という大河川とつながりをもち、『渚』と名付けられました。人々がともにふれあい潤う水辺=『渚』をイメージしたデザインとし御殿山駅前のシンボルとします。 よりそう双柱の形状は、枚方市が目指す『人と人との”心のふれあい”のあるまち』を、柱の中の波形は、淀川の川の流れを象徴しています。 表面をつたい落ちる水は、さまざまな表情をみせながらきらめく川面のせせらぎを表し、アクアブルーの色は、澄んだ水面が青空を映し続け『”うるおい”のあるまち』を表現しています。 平成6年3月」(銘文転記)写真を撮ったときは、水は止まっていました。さて、まずは「牧野」についてです。淀川をのぞむ台地で、交野郡の西部、葛葉郷の南部地域で、中世には牧郷(真木郷)として独立的な状況になっていたそうです。平安時代初期には王家の遊猟地(禁野)となったところだそうです。(資料1)『続日本紀』桓武天皇の延暦4年11月10日の条に「天の神を交野の柏原(大阪府枚方市片鉾本町)に祀った。前々から行ってきた祈願に対するお礼としてである」と記されています。延暦6年10月17日の条には、「天皇は交野に行幸し、鷹を放って遊猟され」と記録があるとともに、同年11月5日の条に「天の神を交野に祀った」と記し、それに続けて祭文の内容が記されています。交野に郊祀檀を設けて、昊天上帝を祀ったのです。そして、高紹(たかつぐ)天皇(光仁天皇)を昊天上帝に合祀して祀りますとということを祭文に記しています。(資料1,2)上記に出てくる光仁天皇が、宝亀2年(771)2月13日に「天皇は交野(現大阪府枚方市・交野市)に行幸した」(資料2)という記述が同書に出てきます。この時に交野ケ原に頓宮が置かれたのが、渚院につながる始まりのようです。このとき、光仁天皇は翌24日、「さらに進んで難波宮に到着した」という記述がありますので、難波に至る交通の要衝でもあったということでしょう。調べてみますと、今回の史跡探訪の範囲外ですが、この郊祀檀を起源とすると由緒書に記す神社があります。「交野天神社」(所在地:枚方市楠葉丘2丁目)です。(資料3)「牧野は交通の要衝であり、南北朝の争乱の舞台となり、応仁の乱では畠山義就の拠点の一つともなった」(資料1)と言います。次に「御殿山」です。平安時代前期に惟喬親王(文徳天皇の第一皇子)の御殿があったという伝承があります。これが最初に訪れることになる「渚院跡」に関係します。上掲地図にその大凡の所在地を赤丸で追記しています。また、江戸時代前期にこのあたりの領主だった淀藩永井家の陣屋が設けらたことに因む地名とも考えられるそうです。(資料1) では、「渚院跡」へ向かいましょう。駅の東にあるロータリーの歩道側にこの道標があります。 渚院跡に向かう途中で南方向を振り返ると、小高くなった丘陵地(御殿山)が見えます。御殿山神社があるところです。景色の右端中央に、御殿山神社と白地に墨書した幟が見えます。 渚院跡は枚方市渚元町にあり、渚保育所の東隣りです。保育所が地図での目印になります。渚院跡は道路から少し奥まった所にあり、入り口にはフェンスが設置されています。 入口である門扉の左側フェンスの右側にこの案内板が見えます。 入口を入ると、ほぼ正面に右の石碑が立ち、その左側に鐘楼があります。 鐘楼の左奥には、石碑などが一列に並んでいます。現在、渚院跡として残るのは長方形のこじんまりとした区画だけです。渚院は、上記の惟喬親王(844-897)が交野遊猟の際に設けた別荘だそうで、淀川の対岸となる山崎水無瀬にも同様に別荘を設けていたと言います。(資料1)『伊勢物語』の第82段「春の心は」の冒頭にそのことが記されています。(資料3)「昔、惟喬の親王と申す親王おはしましけり。山崎のあなたに水無瀬といふところに宮ありけり。年ごとの桜の花ざかりには、その宮へなむおはしましける」と水無瀬の別荘のことが出て来ます。その後に、右の馬の頭なる人が登場します。右馬頭とは在原業平をさします。そして、「いま狩する交野の渚の家、その院の桜ことにおもしろし。その木のもとにおりゐて、枝を折りてかざしにさして、上中下みなよみけり。馬の頭なりける人のよめる。 世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし 」ここに、交野が遊猟地だったことと渚院があったこと、惟喬親王と在原業平などがここで狩猟をし歌を詠み、交遊の場となったことがわかります。この文のすぐ後に、「又人の歌、 散ればこそいとど桜はめでたけれうき世になにかひさしかるべきとてその木のもとはたちてかへるに、日ぐれになりぬ」とつづきます。こちらの歌は、入手した資料によると、「人」とは紀有常だそうです。(資料5)『古今和歌集』『伊勢物語』によって、この「渚院」は都の貴族のあこがれの地となったと言います。(資料5)「元久2年(1205)に、後鳥羽上皇が渚院を宿舎として狩猟を行っている」(資料1)そうです。惟喬親王は文德天皇の第一皇子でしたが、立太子争いに破れます。水無瀬や交野の別荘での遊猟、作歌、饗宴はその憂さ晴らしでもあったと言います。惟喬親王の母は紀名虎の娘で、紀有常の妹でした。一方、藤原良房の娘皇后明子が第四皇子として惟仁親王を生んだことにより、熾烈な立太子争いになり、結局惟仁親王が生後わずか8ヵ月で皇太子に選ばれます。後の清和天皇です。惟喬親王は貞観14年(872)に29歳の若さで出家し、洛北の小野に隠棲し、寛平9年(897)54歳で薨去したそうです。(資料5)鎌倉時代には、この地に水路関が設けられ、讃岐善通寺修理料「禁野渚院艘別銭貨」が徴収された時期があると言います。(資料1)ここからも、交通の要衝だったことがうかがえます。 上掲の石碑等の並ぶ景色の中央にあるのがこれですが、左の下半分に欠損のある石碑を復元したものが、入口の正面に立つ石碑で、「渚院碑銘翻刻碑文(推定)」として碑銘が刻されています。未だ碑文が読めた時代に拓本が作られていて、この碑は寬文元年(1661)11月に建てられたことが判明しています。この地の領主永井伊賀守尚庸が遺跡を荒廃した渚院跡に桜を植えるなど復興に尽くし、江戸初期の儒学者林羅山の三男林鷲峰(1618-1680)に撰文を託して建立した碑だとか。(資料1,5)右の宝篋印塔の基礎の正面には「阿闍梨興善」と刻されています。 一番左端にあるこの大きな石碑は渚院とは関係がありません。上部に、「牧野村紀徳碑」と刻されていて、牧野村誕生に功績があった小山・岡田両氏を讃えた碑だそうです。(資料7,8) 明治28年(1895)の建立だそうです。 右端にあるこの碑は、上記在原業平が詠んだ「世の中に桜の花のなかりせば・・・・」の歌を渚院歌碑(平野南城氏筆)として建立されたものです。(資料5) 最後にこの梵鐘に関わる「観音寺」についてです。渚院は荒廃の後、江戸時代に真言宗の観音寺として復活し、十一面観音を本尊としたそうです。明暦年間(1655-1657)に観音寺は河内国西国三十三ケ所十六番札所として参詣されていたそうですが、荒れ果てた寺になっていたようです。御詠歌が次のとおりです。(資料6) きてみれば渚の院は名のみにてむかしをしのぶ梅さくらかなこの梵鐘の池ノ間には次の文が陽刻されています。 「波瀲邑渚院 観音寺 寛政八丙辰年四月」と刻されています。寛政8年は1796年です。河内鋳物師である枚方の田中家により鋳造されました。別の池ノ間に「冶工枚方住 田中河内大目藤原家信」と刻されています。そして、この梵鐘鋳造の願主が「渚院先住 法印権大僧都興善」です。つまり、上掲の宝篋印塔との繋がりがここで明かとなります。鐘楼も同時期に建立されています。(資料1,5)尚、願主は寺主興善となっていますが、興善が梵鐘鋳造のために有縁の檀施を募りましたが、志を果たせず他界したそうです。「しかし衆檀が興善の三十三回忌に先業の未遂を復するために鐘を作るに至りました」という経緯があるとのこと。(資料6) 梵鐘の龍頭 梵鐘の下帯の文様 草花と躍動する獅子 (資料5)こちらは『河内名所図会』に載る渚院です。本堂の傍に小さな観音堂が描かれています。この『河内名所図会』は享和元年(1802)に刊行されたそうですが、6年前に建てられた鐘楼が描かれていないのです。「たぶん版木の制作後に建立されたためでしょう」(資料6)と解釈されています。排仏毀釈運動の影響を受け、渚院観音寺は明治3年に廃寺となります。明治22年に本尊十一面観音は「西雲寺」に安置され、翌年本堂は禁野本町の和田寺に移築されたそうです。観音寺の鐘楼と梵鐘が残されたのです。この梵鐘は田中家が鋳造したもので枚方市に残る唯一の作品だと言います。鐘楼とともに平成8年(1996)に枚方市指定文化財となっています。(資料5,6)渚院跡が観音寺境内となったとき、境内には栗倉神社御旅所があったようです。元和2年(1616)、この御旅所に八幡大神を勧請し、小倉・渚両村の産土神として西栗倉神社が設立されたと言います。明治の神仏分離令により、この西栗倉神社は御殿山に遷宮されて、御殿山神社と改称されたそうです。(資料7,8)次に、西雲寺を訪れました。十一面観音を見仏にという次第。西雲寺は渚院跡と同じ渚元町で、少し東方向にあります。 こじんまりした山門を入ると、 正面に本堂があり正面に「西雲寺」と記された扁額が掲げてあります。寛永7年(1630)超誉存悦上人の開創。浄土宗のお寺です。それ以前に、真言宗寺院の小山寺があったとも伝わるとか。(資料1) 向拝の頭貫上の蟇股と木鼻はシンプルな造形です。 本堂の屋根は近年葺き替えられた印象を持ちました。鬼瓦と獅子の飾り瓦。 今回の目的は、こちらの境内に建てられた観音堂(四坪)に安置された十一面観音菩薩立像です。明治22年(1889)に観音寺の本尊十一面観音菩薩立像が移される際に観音堂が建てられたそうです。その後、お堂は明治44年(1911)5月に改築されて、現在に至るそうです。(資料6)河内西国19番札所です。 堂内を拝見すると、右側の長テーブルに十一面観音菩薩立像が一体寝かせてありました。 実は修復に出してあった像が戻ってきて間がない状態だということで、ご住職がこの仏像を支えてくださり、すぐ近くで見仏できました。 このような形で拝見することは希な機会だと思います。 こちらは十一面観音の光背です。延宝4年(1676)に、本尊十一面観世音菩薩を安置する厨子を横山平左衛門正勝が奉納しているとのことなのですが、その厨子も修復中だということで、残念ながら今回は拝見できませんでした。 堂内には、もう一体の十一面観世音菩薩立像が安置されていて、向かって右側に弘法大師座像もあります。こちらの観音像の方が上掲の観音像より少し古い時代の作品のようです。弘法大師座像が安置されていることから、もとは真言宗のお寺だったという伝承が頷けます。 不動明王立像 こんな小さな仏像も安置されています。 境内の一遇に、小祠があります。地蔵堂かなと思い近づいて眺めると、 板碑型の石仏や小さな木造の地蔵菩薩像が多数安置されています。この石仏も錫杖は彫られていませんが、たぶんお地蔵さまだと思います。お地蔵さまだとすると、この形式はあまり見かけないものです。西雲寺を出て、北東寄りに進み、欣求寺に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室33 ~大阪・牧野~」 (2019.9.14 レジュメ作成 松波宏隆講師)2) 『続日本紀(下)全現代語訳』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p62,p366,p389-3913) 枚方の神社-1 :「戸原のトップページ」4) 『伊勢物語 (下)全訳注』 阿部俊子訳注 講談社学術文庫 p51-615) 『渚院』 枚方市教育委員会発行 2005年12月6) 「渚院観音寺の由来(改訂)」(文責 森崎甚蔵) 西雲寺にていただいた資料 7) 渚院跡の歴史 枚方市 :「Local Wiki」8) 渚院跡 枚方市 :「Local Wiki」補遺惟喬親王 :ウィキペディア惟喬親王 :「コトバンク」御殿山駅 :ウィキペディア御殿山神社 :「ふるさと枚方発見」御殿山神社 枚方市 :「Local Wiki」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)