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遊心六中記

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茲愉有人

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2017.10.30
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カテゴリ:探訪
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常照寺の門前の道路を西に歩み、千本通との交差点「鷹峯」を横断します。その先に「源光庵」が道路の右(北)側に見えます。源光庵は常照寺の境内地の西隣です。どちらも、鷹峯北鷹峯町に所在します。

道路から4段の石段の上は表門まで数十メートルの石敷の参道となっています。
道路に面して、ここが「禅曹洞宗」であり「源光庵」であることを参道の左右の石柱が示しています。西側には、「開運霊芝観世音」の石標も立っています。

表門をくぐると、参道は左に向かいます。

途中、右側にあるこの石碑が目に止まりました。上部にこの碑の名称が陽刻されていますが、篆書体のような文字で、私には判読できません。

こちは右折する前に、振り返って撮った景色です。参道の右側に表門が見えています。突き当たりの門の先は何でしょう? 

この掲示にも目が停まりました。伏見桃山城が落城したおり、城を守っていた徳川方の鳥居元忠一党が城内で自刃した折の痕跡を残す床板の遺構が天井板に再利用されて「血天井」があるという表示です。伏見桃山城遺構で、血天井として私が拝見したのは、東山七条の「養源院」にある血天井です。こちらにもあるというのは知りませんでした。
勿論、天井板への利用は、併せて自刃した人々への供養を兼ねているのでしょう。

参道の先は正面に碑が建立されていて、その先との境界になっています。その背後、西側の境内地は現在は駐車場です。石碑の写真は撮らなかったのですが、後で調べてみると、その上部に「源光精舎土碑銘」と横書きされていると判読します。(誤読しているかもしれません。)源光庵の由緒について記されているようです。
自ずと、右折して参道を歩むことに。
 
正面に楼門(山門)が見えます。楼上の左右の白い丸窓が印象的です。
    
楼上には、中央の扉の上に、「復古禅林」の扁額が掲げてあります。
左側の門柱には、「認可 参禅道場」の木札が掛けてあります。
 
楼門の屋根の棟には、青海波文の瓦が側面を飾り、棟の両端に鯱が置かれています。
鬼瓦を正面から見られなかったのがちょっと残念!
右の画像は、楼門を通る時、片側の床面を撮ったものです。赤土が敷かれています。特別な意味があるのでしょうか・・・・・。

 
おもしろいと思ったのは、山門より外側、南東側に鐘楼があることです。
 
これは源光庵を出る時に撮った梵鐘とその池ノ間にレリーフされた龍図です。

鐘楼の左側の通路の先に門が見えます。その正面にある石塔を併せてズームアップして撮ってみました。「三界萬霊塔」です。この石塔があるということは、この南側が墓地域なのでしょう。すると、表門の東側の門も墓地域に通じる門かもしれません。


                                       本堂
この源光庵は、正式には「鷹峰山寶樹林源光庵」と号し、貞和2年(1346)に臨済宗大徳寺2世徹翁義享国師が隠居所として開創されたそうです。当初は大徳寺の塔頭だったのです。その後、衰退したようです。
元禄7年(1694)、金沢にある大乗寺27世卍山(まんざん)道白禅師がこの寺を再興し、曹洞宗に改めたのです。本堂は、卍山禅師に帰依した金沢の豪商中田靜家の寄進により、元禄7年に建立されたものだとか。入母屋造です。

卍山道白禅師は、自ら「復古道人」と称したと言います。当時の曹洞宗は、一寺を嗣ぐと、その寺の法系を受け継ぎ、本人既得の法系を捨てるという慣習があったそうで、これを非難する立場だったのです。道元禅師の一師印証の面授嗣法を支持し、宗統復古運動に邁進したと言います。江戸幕府に訴願し、認められるまで42年の歳月を経たのだとか。道元禅師の正伝の仏法に復古するとともに、隠元禅師の規矩を手本としたそうです。(資料1,2,3,4)


本堂の前は広々とした庭になっていて、本堂の南西側に「開山堂」があります。
本堂からまず拝見します。拝観したのは9月です。この時点では建物内も撮影はOKでした。紅葉シーズンの11月は撮影禁止となっているようです。


本堂内の前面は板敷の廊下となっています。その天井が「血天井」です。

本堂内を南東隅から撮ってみました。堂内が広々としています。
本尊は華厳の釈迦牟尼仏で、脇立に阿難尊者、迦葉尊者が祀られています。
本堂の西側に、幕が懸けられています。こちらに「霊芝観世音」が安置されています。この像は、「卍山禅師が、天和元年(1681年)の春、京都洛南宇治田原の山中にて御感得された霊芝自然の観音像」(資料2)ということです。


本堂の東側脇陣の北壁に大きい丸窓が設けられています。「悟りの窓」と名づけられています。この円型は「禅と円通」の心を表し、円は大宇宙を表現するのだそうです。(資料2)

この窓外の景色は四季に応じて、留まること無く刻々と変化していきます。
色即是空。空即是色。諸行無常。
丸窓からの紅葉した眺めは、こちらの紹介例をご覧ください。(京都府観光ガイド)

常照寺の吉野窓も大きな丸窓ですが、吉野窓は丸の下部が意図的に直線になっていて、完全な丸ではない作りになっています。お気づきだったでしょうか。


「悟りの窓」の東隣の北壁には角型の窓があります。こちらは「迷いの窓」と名づけられています角型は「人間の生涯」を象徴していて、生老病死の四苦八苦を表すとか。(資料2)

生老病死の四苦に、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦が加わると八苦です。つまり、四苦八苦が人間の世界という次第です。愛別離苦は、愛する人・ものと別れる苦しみ、怨憎会苦は、この世の中では怨み憎むものとも会わねばならない苦しみです。求不得苦は、欲して求めてもなかなか物事を思い通りに得ることができない苦しみであり、五陰盛苦は、「人間の身心の形成を五つに分けた五陰(五薀)である色・受・想・行・識から生ずる苦痛が盛んに起こる苦」(『新・佛教辞典 増補』誠信書房)のことといいます。四苦八苦は、人間が出会う非常な苦しみのすべてです。

この後、本堂の東側の書院と庭を拝見しました。
 
 
               
本堂から書院に移る廊下にも、もう一つの窓があります。
窓が切り取る外界は、立ち位置によりその見える世界が異なります。観点、視点を変える意味を感じさせてくれるようです。

                            本堂と書院の間の中庭
 
 
         
書院の北側の廊下から、枯山水の庭園を西から東に視点を変えて眺めてみました。
もうすぐ木々が紅葉し、緑のグラデーションの世界が、緑と黄色、オレンジ、紅色、赤色などのコラボレーションの世界に一変することでしょう。
この庭園は、北方の釈迦谷を借景にした庭園です。
 

北端の座敷には床の間があり、「無」の掛軸が掛けてあります。羅漢像が置かれています。誰を表象しているのでしょうか・・・・・。

その隣の座敷の襖絵は水墨画です。これは山口雪渓(1648-1732)筆によるもの。
 
 

山口雪渓は「形式化した画壇に対し、復古的な様相を見せ、牧谿などの宋画や雪舟などの室町水墨画に傾倒した」(資料1)絵師だったそうです。

岡倉天心は、徳川時代の寛政・天明の頃を第二期とし、当時の絵画の傾向を支那風・復古風・写生風・狩野変化と4つに区分しています。復古風の絵師として、山口雪渓・曾我蕭白・伊藤若冲・渡辺始興を挙げています。そして、山口雪渓については、「その名は雪舟と牧谿とによる。このニ家の法を折衷し、もって一家を成さんとして、当時の狩野派に反対して、もっぱら奇抜なる図を作れり」と評しています。(資料5)
 
      
本堂を出て屋根を見上げると、屋根の大棟の両端にはここにも鯱が置かれています
側面の瓦は深さを持たせた円弧を重ねる形で青海波を表現しているように見えます。そして大棟の中央に宝珠形の瓦が置かれています。その正面下部には種字(梵字)が陽刻されています。私にはこの形式もあまり見た記憶がありません。

 
表門を出ると、道路の反対(南)側には、「不断念仏 根本道場 遣迎院」の大きな寺号碑が立っていることに気づきました。
この後で訪れる光悦寺の東側に位置するお寺です。左の画像が表門ですが、もと岡山の高松城の城門といわれるものだそうです。もとは天台宗山門派に属していたそうですが、昭和29年(1954)にこの地に移るとともに、浄土真宗遣迎院派の総本山となったとか。

発遣の釈迦と来迎の弥陀の二尊を本尊とするところから寺号が名づけられたそうです。
二尊はもとは九条関白藤原兼実の邸宅に安置されていたようですが、正治3年(1201)九条道家により証空上人を開山として東福寺の西に一宇を建立して祀ったのが起源だとか。豊臣秀吉の大仏建立により2寺にわかれ、その1寺が寺町の廬山寺の南に移されて天台寺院になったという経緯を経ているようです。(資料1,3)

少し調べていて気づいたのですが、血天井の連想から上記した養源院がこの遣迎院派のお寺です。また一つ点が線として繋がってきました。
養源院について、拙ブログで探訪記を載せています。こちらからご覧いただけるとうれしいです。
                              (スポット探訪 京都・東山 養源院)

源光院の東隣が「鷹峰小学校」です。
「光悦町古図」によると、この校舎のある辺りから西方向に、本阿弥光悦とともにこの地に移住してきた人々の家が軒を連ねていたことがわかります。古図には「たいあみ道有、たいあみ八郎右衛門、藤十郎、・・・・・」と住民の名前と敷地の広さが記録されているのです。

 
今は、小学校の東隣が、「岩戸妙見宮(圓成寺)」となっています。道路に面した入口からかなり奧に山門が見えます。
左側の塀のところに、由緒を記した銘板が設置されています。


北山と呼ばれたこの地域に9世紀、皇城北方鎮護として霊厳寺が設けられ妙見大菩薩が祀られていたそうですが、中世には衰微していたと言います。その旧跡を寛永7年(1630)に本満寺21世の日任上人が再興されたとされています。日蓮宗のお寺です。

道路を隔てて、南側に光悦寺の入口があります。
遣迎院、圓成寺はともに通過点となりました。機会があれば探訪してみたいと思います
いよいよ、光悦寺の探訪です。

つづく

参照資料
1) 「京都の古寺社を巡る32 ~鷹ヶ峰の寺社~」 REC講座 2017.9.7
  当日配布のレジュメ  (龍谷大学元非常勤講師 松波宏隆氏作成)
2) 「曹洞宗 鷹峰山寶樹林 源光庵」 拝観時入手のリーフレット
3) 『昭和京都名所圖會 洛北』 竹村俊則著 駸々堂  p300-301
4)『京都市の地名 日本歴史地名体系27』 平凡社 p486
5) 『日本美術史』 岡倉天心著 平凡社  p217

補遺
卍山道白​  :ウィキペディア
卍山道白​  :「コトバンク」
卍山道白​  :「長谷川画廊アーカイブズ」
卍山道白禅師『禅戒訣』参究(一)​  :「つらつら日暮らし」
円通​  :「コトバンク」
血天井とはどのようなものか。また,どこにあるのか知りたい。​ 
     :「レファレンス協同データベース」
養源院​  :ウィキペディア
そうだ京都行こう-源光庵 2014年10月​  :YouTube

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

探訪 京都・洛北 鷹ヶ峰の寺社を巡る -1 招善寺・御土居・釈迦谷口・常照寺 へ
探訪 京都・洛北 鷹ヶ峰の寺社を巡る -3 光悦寺・御土居・薬草園跡 へ

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Last updated  2017.10.31 17:24:13
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