登る [再録] 白山・御前峰 -2 室堂・奥宮・御前峰、そして下山
南竜山荘第1泊目の夜から天気が崩れ始めました。8月29日の早朝、小雨でしたが「展望歩道」を登り、もし雨が止み雲が切れて日の出が眺められるかすかな可能性に賭けて、「アルプス展望台」まで、メンバーのうち希望者だけで登ることになりました。 ダメモトで登山組に加わったのですが、小雨が止みそうになく山荘に戻る結果に。展望台のこの景色だけ記録として撮ってきました。雨雲とガスで周囲は何も見えないという状態です。 山荘で朝食を済ませた後、小雨が降る中を山頂目指して出発。小雨が降り続いており、デジカメを濡らしたくないし、絵にもなりません。写真を撮るのも最小限にならざるをえませんでした。エコーラインの登山道を登ります。万年雪が残っているところが一部あります。 途中、弥陀ヶ原を抜けていきます。 そして、室堂に。2,450mです。「白山室堂ビジターセンター」は大きな建物です。 室堂ビジターセンターの近くに、この案内板が設置されています。「山頂池めぐりコースの案内説明」があり、下方には深田久弥の『日本百名山』所載の「白山」の文の抜粋が掲示されています。池めぐりは、1周3.8kmで、所用約2時間のコースだとか。天気が良かったら楽しめるところだったのに、残念です。今回は話題にもなりません。室堂センターの前に、「白山奥宮」の額を掛けた木の鳥居が立つ神社が建立されています。この祈祷殿、社務所の建物はこの時(2015年)建替工事が行われていました。白山開山1300年を平成29年に迎えるため、その一環の記念事業として行われていたのです。(資料1)この祈祷所から御前峰の頂上の奥宮を拝するという形になっているようです。鳥居の傍に、「霊峰白山」の説明板があります。この説明では、「白山」が御前峰(2,702m)、大汝峰(2,684m)、別山(2,399m)の三峰から成り立つと説明しています。この山行で入手したリーフレットの説明は、白山の「山頂部は、御前峰(2,702m)、大汝峰(2,677m)、剣ケ峰(2,677m)で構成されています」(資料2)、あるいは「御前峰(2,702m)、剣ケ峰(2,677m)、大汝峰(2,677m)は白山三主峰と呼ばれ、火山活動の噴出物で構成されます」(資料3)と説明されています。御前峰、大汝峰、別山の三峰は、後述の僧泰澄及び白山信仰と大きく関わっています。鳥居の傍から、御前峰をめざします。 「青石」の標識を通過。 この標識の傍にある大石には、脇侍を伴う三尊像が線刻されています。 ここから250mほどのところに「高天ケ原」の標識天気が良ければ、見晴らしが良いことでしょう。 白山奥宮の社に到着。「白山比咩神社奥宮」です。 この奥宮の左側斜め上の一段高いところが、「御前峰」(2,702m)の山頂です。 一等三角点の角柱が傍にあります。 山頂側から眺めた奥宮の背面快晴だったなら、この「白山頂 御前峰 標高二七○二米」と中心部に刻された円盤を参照しながら、360度の各方位に聳える山々を確認できるのに・・・・・嗚呼、残念! 天気が良くないので、室堂ビジターセンターで昼食休憩タイムをとった後、南竜山荘までここから下山することになった次第です。下山途中、弥陀ヶ原に立つ真新しい道標が目にとまります。帰路は、「黒ボコ岩」を経由する登山道コースを歩きました。ただ登山道を辿るだけでしたが。 南竜道分岐に立つ標識 ここには、「甚之助谷第2号谷止工(大正4年竣工)」が平成24年に登録有形文化財に登録されたことの登録銘板や登山道案内図が設置されています。南竜道を歩き、再びエコーラインへの分岐点に戻ってきました。南竜山荘のシステムは宿泊が一泊単位のリセットでした。登山の荷物をここには残せません。そのため朝食後、登山前に総合受付の建物のところでザックを預かってもらいました。下山後ザックを引き取って、再度山荘利用の手続きです。この時期の利用者が少ないせいか、ラッキーなことに二泊目も同じ大きな部屋を我々の同好会メンバーだけで専有することができました。この後は、為すこともなし。小宴会の始まり・・・。翌30日、天気の状態はさらに悪い方向に。本降りに近い状況から下山開始です。快晴のときの計画はご破算にして、登ってきた砂防新道をひたすら下ることになりました。 休憩タイムにこの花の写真を撮っただけです。下山途中、怪我なく無事に、別当出合い登山口に到着! まずは、めでたし。ふと気になったことなどを後日調べてみました。いくつか補足してみます。後智恵に過ぎませんが・・・・私のための覚書です。なぜ「甚之助谷」と称するのか?求めよ、さらば与えられん・・・ではありませんが、由来説明を見つけました。その名は、僧泰澄が白山開山のために山に分け入ったおり、道案内となった歩荷(ぼっか)の名前が「甚之助」だったからと言われているそうです。「甚之助は、集落一の強力(力持ち)で、五斗酒樽(約90kg)を運んでいた時に谷に落ちて死んだので、その谷を『甚之助谷』と呼ぶようになったとも、また泰澄大師が白山で修行を終えて下山する際、お供をしていた甚之助が病に倒れ谷の近くで亡くなったのでそう呼ばれるようになったとも伝えられています」(資料4)そうです。御前峰に白山比咩神社奥宮があるなら、白山比咩神社の本殿はどこに?また、白山神社と白山比咩神社の関係は?全国に広がる白山神社、つまり白山信仰の総本宮にあたるのが白山比咩神社なのですね。(白山神社の社名は何カ所かで見聞していましたが、両社の関係は考えたことがなかったのです。認識を新たにしました。)もともとは、白山をご神体として崇める信仰があったのでしょう。総本宮は現在の石川県白山市三宮町に所在。かつては石川郡鶴来町と称され、2005年の合併により白山市の一部になったのです。ホームページを参照しますと、社伝によれば崇神天皇の7年(西暦前91年)の創建だとか。その後、諸事情から遷座が繰り返されたようです。最終的に三宮を本宮鎮座の地と定められたのが1488年といいます。この白山比咩神社は加賀一の宮なのです。(資料1)個人的経験として、京都・醍醐寺の東、醍醐山には幾度か登っています。この山上の如意輪堂と開山堂との間に「白山大権現」(2011.1.22)の社があり、このときは白山との関係を意識しただけでした。また、地元・宇治の宇治川上流近くで、かつてあったという金色院の跡地で「白山神社」(2014.1.3)を探訪したことがあります。その時も金地院の鎮守社ということ及び白山との関係しか意識していませんでした。僧泰澄の白山開山と白山比咩神社との関係は?伝承によれば、泰澄は霊亀2年(716)夢に天女を見、翌養老元年(717)4月に白山麓の伊野原(現在の猪野瀬)で再び天女妙理大菩薩を夢に見て、「白山に来たれ」と呼びかけられ、白山登頂をしたといいます。御前岳に白山妙理大菩薩、大汝峯に越南地(おおなんじ)大権現、別山に大行事小白山権現を祀ったのです。これを人々は白山三所権現と称えたそうです。養老3年になると、全国に霊山であることが聞こえ修行者が登山するようになっていったそうです。当時は神仏習合、本地垂迹思想が流布した時代です。次のような認識が形作られていったようです。 白山妙理大菩薩 垂迹して白山比咩神 本地仏:十一面観音 越南地大権現 祭神:大己貴命 本地仏:阿弥陀如来 大行事小白山権現 祭神:大山祇命 本地仏:聖観音 (大己貴命:おおなむちのみこと、大山祇命:おおやまずみのみこと)天安2年(858)、妙理権現は比叡山に勧請され、客人(まれびと)権現として、山王七社の一社になったようです。つまり、日吉大社を介して、比叡山延暦寺とのつながりができていくということなのでしょう。現在の日吉大社の山王七社の一つ、白山宮です。日吉大社は延暦寺の護法神という位置づけです。社伝によると久安3年(1147)に白山本宮が比叡山延暦寺の末寺となります。白山修験は比叡山の支配下に入り、この白山本宮が天台宗系の修験者の根拠地となります。白山信仰・白山神社が一層各地に広がることにもなっていったのでしょう。明治時代の神仏分離令が発令された後、御前峰が白山比咩神の奥宮として位置づけられたのです。 (資料1,5,6)白山比咩大神とは?白山比咩神社のホームページや手許の諸本を見ますと、神社の祭神は「菊理媛尊(くくりひめのみこと)」であり、白山比咩大神、白山媛命というのは別称にあたるようです。「白山比咩神社では、菊理媛尊とともに伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)も祭神として祀られています。」(神社ホームページ)手許の本では、上記のように、「垂迹して白山比咩神」と記した上で、さらに「一説には伊弉諾・伊弉冉の二神、または菊理媛命と伊弉諾・伊弉冉の三神、あるいは大山祇神ともいわれ」(資料5)と補足説明しています。信仰者の理解に幅があるということでしょう。興味深いのは、この菊理媛尊が、『日本書紀』の神代の「黄泉の国」の条に記された「一書(第十)にいう。」から始まる説明の場面、つまり伊弉諾・伊弉冉の二神が泉平坂(よもつひらさか)で相争うところに「菊理媛神」として登場するだけの神なのです。この一場面だけに・・・・。「このとき菊理媛神が申し上げられることがあった。伊弉諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。ただし自ら黄泉の国を見られた。これが不祥であった。・・・・」(資料7)という風に記されているだけのようです。菊理媛神は伊弉諾尊に何を語ったのでしょうか?菊理媛尊(菊理媛神)の原像は、もともと白山を信仰する人々が、山の神のお告げを聞く巫女が神格化されたものではないかと考えられているようです。そして、神意をうける役割の菊理媛神が黄泉の国の神話に取り入れられていったのではないかと。(資料6,8)「白山比咩神社は、朝鮮系の有力な神ではなかったかと考えられる節々がある」(資料5)という説もあります。前回、「白山」に関わる和歌のご紹介をしました。この時ネット検索で知ったことを最後に記録しておきましょう。万葉集の巻頭は、雄略天皇の歌「籠もよみ籠もちふ串もよ 美ふ串もちこの岳に菜摘ます子 家告らせ名のらざね ・・・・・」で始まるのはご存じだと思います。この歌が詠まれた場所がどこか? それは、雄略天皇の泊瀬朝倉宮があったあたりと言われるところで、桜井市黒崎だそうです。そして、そこは現在、白山神社境内になっているところなのです。(資料9)白山神社が、思わぬところで繋がってきました。尚、泊瀬朝倉宮の場所には諸説があるようです。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 白山比咩神社 ホームページ2) リーフレット 「白山国立公園」 白山観光協会3) リーフレット 「白山火山ジオサイト」 白山手取川ジオパーク推進協議会4) 甚之助谷の名称の由来 白山・手取川と生きる 「白山砂防通信」2006年春号 VOL.11 pdfファイル 5) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p4316) 『知っておきたい日本の神様』 武光誠 角川ソフィア文庫 p155-1567) 『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 p328) 『「日本の神様」がよくわかる本』 戸部民夫著 PHP文庫 p60-629) 万葉集の巻頭の歌が詠まれた地 :「さくらい」(桜井市観光情報サイト)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺鶴来町 :ウィキペディア白山甚之助谷地すべり予知 :「川村研究室」標高2000mの辺境で土と格闘 :「ケンプラッツ」日吉大社 ホームページ ご祭神・ご神徳白山神社(桜井市黒崎) :「奈良県桜井市観光協会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)登る [再録] 白山・御前峰 -1 別当出合~南竜山荘 へ