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遊心六中記

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2016.12.05
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カテゴリ:山歩き

北白川・地蔵谷から一本杉までは尾根歩きで、午後に東海道自然歩道を歩きつつ大津市側に降る後半は、史跡探訪を兼ねる形になりました。それぞれの場所をかつて史跡探訪したことがあり、久しぶりの再訪の機会に恵まれたことになります。逆方向から歩くことになったので、それなりに新鮮な感覚があります。
冒頭の写真は崇福寺跡の一つである「弥勒堂跡」です。


まずは「崇福寺」ですが、「天智天皇の勅願によって、天智七年(668)に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺とも呼ばれていました」(説明板より)。2回の発掘調査により、「三つの尾根上に礎石建物が建てられてていたことが明かに」なっているそうです。
「崇福寺縁起」には、この寺が大津京の西北の尾根に建てられたと記されているそうです。昭和14年(1939)の発掘調査において金銅・銀・金の三重の箱に納められた舎利容器が銀銭・鉄鏡などと一緒に発見されているといいます。ただ崇福寺のものという証拠まではないそうです。「舎利容器の文化レベルから考えると、大津京跡に深いつながりがありそうだ」ということです。(資料1)

この「弥勒堂跡」は北の尾根上にあります。礎石の配置からは五間三間の建物と推定されています。またこの「弥勒堂跡の東側に、瓦積み基壇の一部や石垣の一部」(説明板より)が発見されているようですが、不詳だとか。

弥勒堂跡から西の谷側に降ると、「金仙の滝」と呼ばれる滝があります。

その滝側に霊窟があるのです。ここにはこんな伝説があるそうです。
「ある日、宮の乾(いぬい:北西)の方向に霊窟があるという不思議な夢を見た天智天皇は、その夢でいわれたとおりに、翌朝、この地に探しにきたところ、一人の僧侶と出会い、この地が仙人の住む霊窟であるという話を聞きました。このことが崇福寺建立のきっかけとなったということです。」(説明板より)
この伝説、調べてみますと、『今昔物語集』の巻十一「本朝付仏法」の第29番目の話として、「天智天皇、志賀寺を建てたる語」という見出しで収録されています。(資料2)

         
滝側の洞窟は小規模で、奥行もそれほどありません。ひと一人が修行で留まる位の広さはあります。奧の壁面には定かではありませんがこの写真のようなあたかも祈願する人物像にも見える様な図柄が見られます。

西の谷から、中の尾根に少し上ります。
 


そこには、東西に2つの基壇があるのです。小金堂跡と塔跡で、礎石がその位置を示しています。
 
説明板の地形図と堂塔跡の実測図を部分拡大してみました。
地形図には、位置関係が見やすいように名称を追記しました。
上記した舎利容器は、この塔跡の基壇中央部、地下1m余りのところに塔心礎があり、その側面にあけられた舎利孔から発見されたそうです。説明板には発見物が詳述されています。(説明板参照)


ここから金堂跡のある尾根に向かいます。
近くに建てられた標識によると、弥勒堂跡には180m、金堂跡・講堂跡には160mという距離関係にあります。
 


ここが一番広々とした平坦地になっていて、「崇福寺旧址」の石碑が山側の端近くに建立されています。旧は旧漢字で刻されています。
 説明板

     
説明板の右上に掲載されているのがこの実測図です。
この実測図を見ますと、上掲の石碑は金堂跡の中央付近に建てられていることになります。

これが金堂の礎石の一部で、石碑に向かって左側面の礎石です。
南の尾根上の西側にあり、約5.5mの基壇を設けた金堂跡と推定できる5間4間の南面する建物跡だそうです。




     
こちらが講堂跡の礎石の一部にあたるようです。
この講堂跡と推定されている建物も、金堂跡と同様に5間4間の南面する建物跡だそうです。この講堂の北側に、3間2間くらいの小さな建物跡がさらにあります。(説明板より)

         
崇福寺全体の位置関係はこの地形図でおわかりいただけます。黒丸が説明板の設置されている場所です。3つの尾根上が開削されて諸堂が建立されていた状況がよくわかります。

説明板には、興味深いことが後半に記されていますので、転記します。
「この南の尾根上の建物と北・中の尾根上の建物群とでは、建物の方位や礎石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在、南の尾根の建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群を崇福寺にあてる説が有力視されています。
 崇福寺は、壬申の乱によって大津宮が廃都になった後も、繁栄をつづけ、平安時代には十大寺のひとつに数えられるほどになります。しかし、平安時代末期の山門(延暦寺)と寺門(じもん:園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途をたどり、鎌倉時代後半頃には、ついに廃絶してしまったようです。」これは平成4年(1992)3月に大津市教育委員会により設置された説明板です。
上掲説明板の左上にあるのは、南西方向からみた崇福寺跡の航空写真です。

 
大津市側から崇福寺跡に登ってくると、左の標識がその登り口になります。
そこには右の写真の説明板があり、国指定史跡の崇福寺跡について、概説の説明がされています。ほぼ上記の内容と重なりますので、写真だけ掲載しておきます。これを最初に読むと総論部分を読むことになり、各尾根上の説明板が各論編になります。

 
これらの標識や案内板が設置されています。
ここから、ウォーキングのメンバーは、志賀の大仏に向かいます。


坂道を下ってくると、このお堂があります。坂道の下方向からお堂を眺めた景色です。
ここはイメージしていただきやすいように、坂道を登ってきた方向からお堂にアプローチする形でご紹介します。
    
お堂の側に「石造阿弥陀如来坐像(志賀の大仏)一躯」と題した説明板が設置されています。

お堂があるのですが、このお堂は参拝用の建物という感じです。

 
ご覧の通り、大仏様は露天のままなのです。かつては露天の大仏様がここに安置されていたのかもしれません。
「この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いずれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています」(説明板より転記)
        


高さ約3.5m、幅約2.7mの花崗岩に、厚肉彫に彫出した高さ約3.1mの阿弥陀如来坐像です。上半身に彫刻の主力が置かれ、13世紀頃に造立されたと考えられています。(説明板より)

          
堂内には、みろく菩薩御詠歌を記した額が掛けられています。
この石仏が一説では「弥勒菩薩坐像」として伝えられているようでもあります。(資料3)それがこの額にも繋がる信仰なのでしょう。
「志賀の大仏」は「見世の大仏」とも呼ばれていたようです。現在の地図を見ると、京阪電車の滋賀里駅の東側に「見世」という地名がありますので、この地名と関連があるのかもしれません。

少し脇道に逸れますが、志賀の山越により京都の北白川に出るところに触れておきましょう。志賀越道が今出川通に達する辻のところに、「子安観世音」と呼ばれる大きな石仏が鎮座します。

この石仏がそれです。2003年3月に撮った写真。駒札には、「ここは昔から白川の村の入口に当り、東は山を越えて近江へ向かい、洛中へは斜に荒神口に通じていた。また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった」と往時の道の繋がりを冒頭に記しています。「細道」がいまや今出川通という幹線道路です。鎌倉期の石仏。
また、江戸時代の『拾遺都名所図会』には「北白川の石仏」として絵を載せていて、そこには「北白河の石仏は希代の大像のいしていづれの代の作といふ事をしらず」と文を記しています。(資料4)
この石仏は「古来子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る」(駒札より)とか。

 
志賀の大仏から100mほど坂道を下った右側にこの石仏があります。磨崖仏の一種でしょうか。自然石に石仏を彫り込み、この場所に安置されたのでしょうか。この石仏も定印を結んでおられるので阿弥陀如来坐像なのでしょう。

 
さらに下ると、左側にこの標識が立っています。「百穴古墳」です。古墳群の入口付近に説明板が設置されています。


 



 

 
今から約1400年前、古墳時代後期に作られた墓が多く集まり、横穴式石室の入口が穴のように見え、それが数多くあることから「百穴」の名がついたそうです。墓に一緒に納められていた品々から、これまでの研究では、中国や朝鮮半島からやってきた人たちと深く関係する古墳群と考えられているそうです。
この古墳群についての詳述は、部分拡大した説明文をお読みください。
    


更に坂道を下っていくと、石仏を集めて祀ってある一画が路傍にあります。
「日本の茶栽培の発祥地 滋賀里」という駒札
唐の時代に中国に留学し、帰国した僧永忠が延暦24年(805)に帰国の際、茶の種を持ち帰ったと説明されています。永忠は崇福寺と梵釈寺の検校(宗務総長)となったそうです。寺域周辺、つまりこの辺りに茶畑を開き、茶の栽培をしたといいます。
「弘仁6年(815)嵯峨天皇唐崎行幸の折、天皇に茶を煎じて献じた。これがわが国における茶の接待の初めという」とか。(駒札より)

 
地蔵堂や法華塔が目に止まりました。
        
「千躰地蔵堂」の扁額が掛けられていて、格子戸から拝見すると、中央の地蔵菩薩坐像の周囲に小さな地蔵菩薩立像がまさに千躰余並べて安置されています。これだけ並ぶと壮観です。こういう形式で地蔵尊を祀られているには、初めて拝見しました。このお堂の前を通過したことがあるはずなのですが、その時は素通りしていたのでしょう。

京阪電車滋賀里駅が今回の終点です。そこまではあと少しですが、その間にもいくつか目に止まるものがあります。
 
禅宗寺院の山門前でよく見る石標が路傍にぽつんと残されています。かつてのどこかの寺域の入口を示す感じですが、不勉強故に不明です。また、崇福寺遺跡への道標も立っています。

 
八幡神社の鳥居や、千鶴大弁財天のお堂の側を通過しました。今回は素通りとなってしまいました。

後日に調べてみると、滋賀里八幡神社は9月に行われる秋祭りに特徴があるそうです。
「約6mの青竹でつくった三本の鉾のお渡り。鉾は、松に日の丸の絵柄の3本の扇を円形に組み合わせて鉾の先端につけ、その中心に塩と米を入れた晒の袋をつるしたもの」という行事が行われるといいます。夕刻の神輿2基の還御も勇ましいとか。松明が灯され、神輿が境内を駆け回るそうです。(資料5,6)
一方、千鶴大弁財天については、情報を入手できませんでした。

そして、京阪電車滋賀里駅到着です。

ご一読ありがとうございます。

参照資料
1) 『滋賀県の歴史』 原田敏丸・渡辺守順著 山川出版社 p34
2) 『今昔物語集 本朝仏法部 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫 p93~95
3) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p7
4) 北白川の石仏 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」
5) 滋賀里八幡神社の秋祭り  :「大津市歴史博物館」
6) 志賀八幡宮秋祭り :「るるぶ.com」

補遺
滋賀八幡神社 9月15日秋祭り 歴史散歩 :「西近江 しんぶん」
志賀八幡宮御例大祭(八幡神社) :「きょうの沙都」
滋賀里  :ウィキペディア
北白川の子安観世音(京都市左京区) ふるさとの昔語り :「京都新聞社」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)


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Last updated  2016.12.05 12:01:40
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