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2009.10.08
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カテゴリ:八面六臂星人

みなさま。

種田陽平さん 講演会とサイン会 は、

10月18日日曜日でございます。

土曜日ではございません。

お詫びして訂正いたします。
すでに、知らぬふりして、前の書き込みは訂正してるんですが。

10月17日土曜日に新宿ブックファーストにお並びになっても、ワタクシは責任は負いません。 お化け

再告知ついでに、

種田さん話でちょっと思い出した。

テレビね、「わたしが子供だったころ」、種田さんの回を、あなたは見ましたか。

―はい、わたしは見ました。
・・・なんだか中一の英語の教科書みたいだな(いや、今の教科書はもっと楽しいという話だが)。

とにかく、見ていて、私は天才と自分との共通点を発見したいなずま。ちょっと嬉しい。

ひとつは転校生だったこと・・・ 
トランプ(スペード)・・・そんなことかい、と。ムカッ
恐ろしく当たる確率の高い抽選みたいな。そういう共通点なら言い出したらきりがないぞと。
だが転校生として新しいクラスに紹介されるときの気分、その前日の恐怖というのは、日直の前日も不安で眠れなかった人間としてはよくわかるのだった。
さらに言えば、あの当時、自分の周りには活発な子ばかりに思え、内気な子供というのは自分しかいないように思えたのだが、実はこうして存在していたのだなと。不思議だが、ほんとに当時は、周りは明るく活発で積極的な子ばかりで、消極的な自分はかなり自己嫌悪に陥っていたのだ。ほんとです。

それに似た感覚・・ 孤立感めいたものを、天才もかつて持っていたのであった。見方を変えれば、天才なら持っていても長じて芽を出す元になるが、凡才が持っているとただの悲しい記憶なのだった。

(ついでだが、だからね、現在学校で不安におびえていたり緊張してたりする子がいたら、ここで絶望してはいけません。あと数年の我慢です。さらにその先十数年辛抱してごらん、じゅうぶん面の皮も張ってくる)

ただ、私は自己紹介の練習を前日にした覚えはまったくない。その辺もまた、長じて映画の舞台となるものを設計する人との違いがすでに見えているのであった。

ま、とにかく。転校経験者は日本に数え切れないほどいるだろうが、私が美術監督とのあいだに見つけた共通点はまだあるのだ。それは

・・・ 人形遊び。マル秘パンチ

種田さんの場合は”フィギュア”というべきかもしれない。
どのみち、なんだそんなことかと言われそうだが、共通点の核は人形遊びそのものではないのだ。

その継続期間の長さです。18禁

かなり長じた子供になるまで人形で遊んでいた。

同じです。!女の子で人形遊びはまあ奇妙ではないが、みんながやめるころになっても私はしつこく人形で遊んでいたのであった。そして、

ストーリーを作っていた。マル秘

そうなのです。
これも、鉄面皮となった今なら話しても恥ずかしくないが、
結構人には言えない秘密めいたことであった。

つまり、お人形を物語の主人公に仕立てて遊んでいたわけです。
まあたいてい、冒険ものになるわけだよね、ストーリーとして。
種田さんがはまった推理小説はホームズだったらしいが、私はホームズよりもルパン派であった。つまり理知的な人じゃなくて、巻き込まれ型・結構細かいところ適当型。
その辺も、長じて設計という理知的作業をする人との差が感じられる。

冬になっておこたが出ると、コタツ布団はいい舞台装置になったりしたのでした。
襞を立てると山の峰ができたりするのである。そこにリカちゃん(私が持ってたのはリカちゃん人形でした)が捕まっていたりするわけだ。・・・鉄面皮になってもこのあたりを語るのはまだ恥ずかしいものがある・・・ 下敷きになっているのはルパンか江戸川乱歩だから、まあリカちゃんが横溝正史ばりにコタツの赤外線で焼き殺されてしまうことはなかった。
たまたま祖母が遊びに来ていて、人形を邪険に扱っている(ように見えたのだと思う)孫に気づき(隠れて遊んでいるつもりだったが所詮子供だ)、あらお人形がかわいそう、だか、お人形が汚れるよ、だか、そんなふうなことを言われた覚えがある。これには訳が、と説明するだけの能力が当時の私にはなかった。

しかしコタツ布団に人形を埋めていた私と違い、種田さんはすでに、絵になる光景に置く場所を定めておったらしい。やはり、この辺が・・・

ところで、人形遊びをしつつ、私は漫画も描いていた。ストーリー漫画であった。ここも共通するのである。すごいではないか。ただし私の”ストーリー”漫画とは、当然のごとくルパンのもじりであり、永遠にラストシーンが訪れなかった(今こうしてだらだら書くのはいわば三つ子の魂といえる)。ついでに言うと中学時代、友人と交換日記ならぬ「交換小説」をやって遊んでいたが、相手がきちっとまとめようとするところを私がまたばらばらにするため、これも永遠に未完に終わった。私としては謎があちこちにばら撒かれて最後に見事にまとまる、というのを目指していたのだが、あまりにばら撒きすぎて何がなんだかわからなくなる・・・ 今もここでそれをやっている気がする。

気づいたので引き戻して、
その人形遊びだが、種田さんとも何度か組んでいるあの監督/脚本家の三谷幸喜さん、あの方も実は人形遊びをかなり高学年になるまでやっていた、というのを、どこかで読んだか聞いたかした覚えがある。そのときも、”わ、一緒だ”と、ひそかにご満悦になった私であった。

しかしここでふと思う。

どこで違ってくるのだ?

似たようなことをしていても、その先は見事に違うわけである。
これは言ってみれば、「なんでうちの子が東大に?」という、どこかの塾が提示する問題みたいなもんですね。

思えばおふたりは二次元から三次元に進んでいったわけだが、その辺に鍵があるのか。
・・・ないような気もするけど。

遊びから先に進めなかった者と、さらに世界を進めていった者との違い。

―それは興味深い問題でありますが、別にそれを追及するのが本編(”編”かいっ)の主眼ではないため勝手にきります。
ただ、ひとついえる答えとしては、

先に進んで花開いた人の場合、内気な子供の過去は現在につながる美談だが、
年とともに萎れただけの人間の場合、過去は言わずにおいたほうがいい恥である(「そういうこと言うと変な人だと思われるからやめろ」という、現実を知る姉の声が聞こえてきそうだ)。

ところで最初に戻りますが、「わたしが子供だったころ」はかなりきちんと取材もし、本人にお話も聞いて、再現ドラマもがんばって作られていたが、
それだけに、当人の喋りをさらに聞きたいという気にならなかったでしょうか。

そう言う方のために10月18日がある。

まあ、転校初日の教室に入るときみたいに、
ひとりじゃなあ・・・とか腰が引ける気分になる人もいるかもしれないが、

大丈夫です、私がいるから。

・・・嘘です。

―ここで問題。

上の文章で筆者が意図するものに最も近いのはどちらか。

1) 私が(会場に)いる、というのは、嘘である。
2) 私が(ついて)いるから大丈夫、というのは、嘘である。

中学一年の国語のテストより難しいぞ。
卒業式

えんぴつ追記: タイトルの「非凡と平凡のあいだ」というのは、
種田陽平さんが美術監督を担当した『冷静と情熱のあいだ』を意識しました。

・・・だめかな?

 

 

 

 

 

 

 

 






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Last updated  2009.10.11 18:23:11
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