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森本哲郎氏は、三内丸山遺跡は「四大文明」に肩を並べ、「五大文明」の一つに数えられる可能性がある、と言う。 「古代文明といえば、私たちは、まず、大河のほとりに生まれた「四大文明」を思い浮かべる。 ナイルが育てたエジプト文明、チグリス、ユーフラテスの岸に生まれたメソポタミア文明、インダス河畔に 栄えたインダス文明、そして黄河の流域に形成された中国文明である。 」 (中略) 「だが、果たして、そうなのだろうか。こうした“常識”を、一挙にくつがえしたのが、昨年7月、青森市の 近郊で発見された、縄文時代の三内丸山遺跡だった。 5500年前と推定されるこの巨大な集落は、村という 概念をはるかに超えて、都市といってもいいほどの規模と計画性を示しているのである。 5500年前- ということは、紀元前3500年である。それを世界の「四大文明」と比べてみるといい。古代エジプトで第一 王朝が始まったのは前3000年ごろ、ギザの台地にクフ王の大ピラミッドが築かれたのは前2600年ごろ、 とされている。 とすれば、三内丸山の縄文“都市”は、ピラミッドより1000年も前に出現していることになる。 「歴史はシュメールに始まる」といわれ、最古の文明と考えられているそのシュメールが、メソポタミアに初期王朝を開いたのは、 前2900年、三内丸山よりも600年もあとである。 また、インダス河畔にモエンジョ・ダロ、ハラッパーなど の都市文明が興るのは、前2400年ごろ、なんと、三内丸山より1000年もたってから、なのである! さらに、黄河文明と比べてみよう。 この大河の流域で竜山文化と呼ばれる中国文明の萌芽が見られるのは、 やはり、前2400年ごろ、すなわち三内丸山より1000年も遅れている。 むろん、それ以前に華北で 仰韶文化が現れており、また長江(揚子江)下流の(注1)かぽと遺跡からは、稲作の遺構も確認 されている。 が、これとて三内丸山と、ほぼ同時代なのである。 (中略) まだ全体の8分の1しか発掘していないというのに、出土品はダンボール 4万箱に及んでいる。 全域を掘ったら十数万箱にものぼる見通しだそうである。 その出土品の見事さも さることながら、私が何より驚嘆したのは、直径なんと80センチの巨大なクリの木柱を何本も使用している、という その痕跡だった。 80センチの柱を造るには、少なくとも直径1メートルの大木を伐採しなければならない。 そのような作業が、どのようにして可能だったのであろうか。 (中略) だが、三内丸山に1500年にわたって住んだ縄文人は、同時代に、木材のなかでもきわめて堅いクリの 巨木を自在に使用しているのである! * * * * * M・ミッチェル・ワールドロップ著『複雑系』を読み、それについて立花隆の議論より 神概念 かつては、神にできることと人にできることはかけはなれたものであった。 しかし現在は、神にもできないことを人が行なっている可能性もある。 ケミカルなもので言えば、スパコンの設計によって新物質を作ったり、非常に複雑な人工生命を作ったりしている。 そもそも人の脳は30年かけて一人前になり、60年くらいたつと能力が落ちてしまうが、工学的に作った脳は死ぬことはない。 『2001年宇宙の旅』どころではないコンピュータのできる可能性も原理的にはあるのだ。 また、核融合というものは、ある意味では太陽を作るということである。 全てのエネルギーは太陽から得ているのだから、宇宙空間のどこかに太陽を作って人工惑星も作れば、人がそこへ移住する可能性も出てくる。 もしヴィーコの言ったように「作る=真理を知る」なら、 人は神の座に挑戦しつつあるし、その領域も広がっていると言える。 ヴィーコの言葉は当時とは違った生々しさを持って我々の前に立ち現れつつあるのだ。 もし人が独特な生命存在を示すような生命体を作ることができたなら、神や人や存在と言った根本的概念が再検討されなければならない。 その時パラダイム転換は今と比較にならないところまで進むだろう。 現代の科学技術は、かつては手の届かなかったところに進んでいる。 チップの上でニューロンや遺伝子をいじることもできる。 遺伝子をいじった結果どうなるかを論じることは、かつてはタブーだった。 しかし、今は遺伝子操作をして何が起こるかなど、 自然の中にもともとあるメカニズムを利用してこれまでにない世界を作っている。 今、人間にとっての神概念とはそもそも何なのかが問われなければならないところへ我々は来ている。 神概念はそれぞれの宗教が持っているものだが、 では神概念とはもともとどういうものでそれを投影した社会にどんな影響を及ぼすのだろうか。 神概念の一般化と言うものがそろそろ行なわれなければならない。 そもそも色々な人の集団にそれぞれ神というものが見られるということは、 神というものを作る遺伝子構造がどこかにあるのかも知れない。 「神とは○○である」という文章の述部を並べれば、少なくとも神というものがどういうものか見えてくるだろう。 これは民族の概念を越えて一般的にどの宗教でも共通している部分がかなりある。 キリスト教の例でいえば、神は全知全能ということになっている。 もちろんこれが全ての神に当てはまるわけではないが、 人間を超越した力を持っているという例はかなり多く、 人の持つ能力の延長上のとてつもないsuperiorの域、人がこうありたいと願う能力のセットが神であるともいえる。 その意味において、 技術的に工学は神とパラレルであると言えよう。 人間がこういう働きをする機械を作りたいという技術的な極限まで工学は進もうとしている。 どこまで技術が進歩するか分からないが、 非常に面白い領域の研究が今進められているのだ。 * * * * * 愛がもっとも気高くもっとも神聖な行為であるのは、 愛がその中に愛でないものまでも 包み込んでいるからだ。 『調理場という戦場』斉須政雄 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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