カテゴリ:1年以上前をふりかえっての日記
さて、今、元気にがんばっているテニス中年?Hであるが、15年くらい前にケガをした時のことをやはり書いておきたいと思う。
Hは大学時代のバンド仲間で、ドラマーだった。最初に一緒だったバンドからの3人で新しいバンドを作り、それが卒業後も私が続けるBUCK BEATにつながった。そこから数えると7年やったことになる。ついでだが卒業後はその二人はカタギの先生(高校教諭)になって故郷に帰っていった。だから4年間のバンド仲間。 そのHが故郷の高校教師生活の初めての冬、雪道でスリップして対向車線に飛び出した…と聞いた。地方の新聞に事故記事が載ったという情報が先だった。 無事かどうかを聞く前に「ああ、またか」と思った。実はその最初のバンドでは、ボーカルTが大学4年生の時(本人は2年生のままだったけど)に脳挫傷で死んでいた。Tとのことはそれだけでも長い話なのでここではふれないが、それもあって、「ああ、Hも死んだか…」と勝手に思ったので、「入院中」と聞いて、妙に安心してしまったのだ。 で、友人Oと先輩まっこい氏とお見舞いに行った。事故からしばらくたっていたと思う。本人たちは久しぶりに会って、旅行気分で宿泊して、翌日Hの病院に行った。 目の前のHの姿を見て、驚いた。車いすに乗って、その足が驚くほど細かった。そういうことに詳しくない当時の自分でもピンと来た。 本人から「脊髄損傷って言って、腰のあたりを強く打ったから下半身が動かなくなった。もう歩けないんだよ。」と自然に言われた。 ちなみに車は対向車線を飛び出して大破。その車を見た妹さんは、「生きてるなんて奇跡だ」と言ったそうだ。 生きてたことに感謝する気持ちともう歩けない現実と…いきなりつきつけられて困惑した。 感動しやすく熱いまっこい氏はその場で泣けたが、そのまっこい氏に冷酷と思われている(『北の国から』を見て泣かなかったからだが)私やOは感情を通り越して無反応だった。少ししてトイレで大便をしていたら泣けてきた。 「生きていたことに感謝しなきゃあ」とたぶんたくさんの人に言われたに違いない。でも目の前には『もう歩けない現実』がずっとあるのだ。友人Hは、楽観的で、いい加減で、人生何とかなると思っているタイプで、結構大ぼけで、本気になると結構やるヤツで、かなりHで…と愛すべきキャラなのだが、そのあいつでも悩んだんだろうなあというのを感じさせた。 今思えば、まだ通り越してないし、悩みのまっただ中かもしれなかったが、「医者が『失ったものを数えずに、残ったものを数えなさい』って言ったよ。」とか「人によっては、最初の1ヶ月で動かない足を刺して自殺するから注意が必要らしい」とかそんな話をして、「俺はもう大丈夫」というムードを出してくれた。 リハビリセンターも出て、自宅生活になってから、友人Hが恵まれていたのは、『労災』が完全に認められて、『障害年金』もキッチリ出たこと。当時の「飲酒運転、酒少しなら当たり前」の時代に、酒飲みの彼が、運良く、まったくのしらふで起こした事故だった。飲んでいたら、その手当の多くを棒に振っていたのだ。収入があるということはその後の生活、物心両面で大きかったろうと思う。 ちなみに、今現在も私の月収より遙かに多いのだから(笑)。 最初は、おっちゃんたちと健康麻雀ばかりやっていたり、パソコンいじったりしていたが、そのうち知り合いを通じて『テニス』と出会い、テニスを通じて、世界を広げていった…そうだ。ちなみに車いすバスケットにも誘われたが、激しい当たり合いに「とんでもない」と思ったそうな。 今の彼は、『自信を持って生きているけど、いばるような人生ではないと思っている』ような不思議なスタンスで、なんだかちょっとかっこいい。 当時、Hのけがのことで、自分の中では『障がい』ってものが、急に身近になった。 それまで、『障がいを持つ人』と関わる機会はあっても、『ともだち』になる機会はなかった。 ところが急に『ともだち』が『障がいを持つ人』になったので、するとあまりにもすんなりと受け止められた。大変だったんだろうなあ…でもあいつはあいつ、俺は俺…みたいに、変に同情もしないし、でも大事に思う気持ちもあるし…。 Sの自閉症という障がいを受け入れる時、あるいは「たぶん、自分の子は障がいを持つだろうなあ」という予感めいたことを感じていたのは、自分の中でそういう準備ができていたからかもしれない。 わかったような気になって、私が障がいを語れるのも、息子Sと友人Hのおかげである。 そして、まったく無断で、この事実を書き留めて、後ろ姿とはいえ見る人が見ればバレバレの写真を載せるのであった…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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