カテゴリ:最近のことの日記
ずっと忘れない日がある。昭和58年(1983年)7月22日、1回戦最高の好カードと言われた下関商業との試合は3対3で延長となり、10回表、6点を一気に取られて敗れたその日。 その試合(も)、控え内野手で代打要員の背番号10番は一塁コーチャーとしての仕事のみで打席には立てなかった。(それでもすごく疲れたが…) 代打ではなく、最終回に守備要員(守備が不安で控えだったはずだがw)としてセカンドを守って出場したら、相手打者がセカンドからサードに移った選手を狙ったセーフティーバントを試み、1球でチェンジとなった…。球飛んで来なくて良かったが(笑)、正に何もせずに高校野球が終わった。 7月初めに脳血栓で倒れて救急搬送された時は「2週間程度で退院」と聞いていた。家で倒れた時、ろれつが回らない状態で母に必死に何かを言っていて、「これに書いて」と紙を渡したら右手がマヒしていて、左手で必死に書いた文字が「119」だった…という、「書かせるよりもまず救急車だろ!」というブラックジョークのような話が、その後、元気になっていれば笑い話になるはずだったのだが…。 そして、7月19日に家族(母と兄)に「腎臓がん」であること、腰骨などに骨転移があることの説明があり、そのまま医師を伴って本人へのがん告知に病室に行った。父は、面会禁止なのに現れた二人に相当驚いていたようだ。相当悪いなと覚悟したのかもしれない。告知を受けた時に父の意識はしっかりしていて、倒れる前の1か月間、食欲不振でかかっていた近所の内科医のことを「○○のやつ…」(がんを見逃して的外れな食事療法をさせやがって…の意か?)とつぶやいた。医師が今後の治療計画を示したこともあり、「すぐに死ぬようなことはないだろう」と家族もそこそこ長い闘病を覚悟した。
そのまま荷造りをはじめて、7月22日早朝4時に単身で始発電車より早いバスで出発。これなら新幹線小倉経由で11時47分に下関駅に着く。
後から考えると、いつもせっかちで、結構「かっこつけ」の人だっただけに、「死ぬとなったら苦しまずにスッと、家族にもその姿を見せずに…」は、本人の狙い通りだったのかもしれない。病院で姿を見た時、つらい症状が1か月弱続いていた人とは思えないほど、穏やかな表情をしていた。
お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[最近のことの日記] カテゴリの最新記事
大変な時間を過ごされていたんですね。
命とは、本当に奇跡のようだと今自分が生かされていることさえも不思議にかんじるようになったものです。 私も母を看取ることができず、ずっと悔やんでいますが、それが個人の希望した去り方だったのかと感じたりもします。 今でもずっと傍にいる、そんな不思議な感じを受けるのも死に目に会えなかったからかも知れません。 季節の変わり目ですね。体調ご自愛下さいね。^^♪ (2021/10/03 09:16:59 PM)
harmonica.さんへ
温かいコメントありがとうございました。 こちらのブログ、日頃はFacebookの投稿でシェアする形で記事を人に見てもらうのですが、今回はこちらに直接書いただけで、多くに人には特に話さないまま…にしていました。 なんだろう、人とその話のやり取りをすることをまだしたくなかった…というか、どこかで父の死がどんどん確定していくのを避けたかったのか、ネットの中でのやりとりでそれをしたくなかったのか…よくはわからないのですが、直感的にそうしたほうがいい(自分にとってだけですが)と思ったようです。 今は、下関の友人や古い友人あたりのLINEグループでは話したし、まもなく喪中はがきの時期なので、もう人からお悔やみが来ても抵抗はないのですが、少し不思議な感じです。 看取れなかったことも、「なるほど、これが『故郷を捨てた』ってことだったのか」と今更ながら思ったりしています。 (2021/10/19 12:20:03 AM) |
|