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古びたその小さな鈴を、昇一さんがクロの首につけた日のことは、珠子もよく覚えていた。
あの日、昇一お兄ちゃんは、店に迷い込んできた子猫を抱き上げ、愛しそうに頬ずりしながらこう言ったのだった。 『今日からおまえは俺の弟だ。 真っ黒だから、名前はクロにしよう。 いいかクロ、怖いことがあったり、お腹がすいたり、寂しくなったりしたら、すぐに兄ちゃんを呼ぶんだぞ。 この鈴の音が聞こえたら兄ちゃんがすぐに飛んで行ってやるからな。 そうだ、もう2度と迷子にならないように、名札も作ってやろう。 龍王クロ。 どうだ、かっこいいだろ?』
荒ぶる魔物の魂を鎮めるように、マサキがおだやかな声で続ける。
「龍王クロ。 昇一兄ちゃんにつけてもらったその名前を、おまえは忘れてなかったんだな。 だけど、おまえが死んだことで昇一兄ちゃんがどんなに悲しんだか、おまえには見えなかったのか。 かわいそうに、おまえはきっと昇一兄ちゃんに拾われる前にも、母猫や兄弟猫から切り離されて独りぼっちになって、何度も人に裏切られて悲しい目に遭ったんだろうな。 そしてようやく、信じられると思った人間 ――― 昇一兄ちゃんにめぐり会えたのに、それもつかの間、その人にもまた見捨てられたと思い込んでしまったんだろう。 無理もないよな」
小さくため息をもらして、マサキが続ける。 「・・・だけど、そうじゃないんだ。 クロ、兄ちゃんは、決してお前のことを忘れたりしなかったぞ。 あんな形でおまえを死なせてしまったことを、兄ちゃんは長い間、悔やんで、苦しんでいた。 あんなところでこっそりクロを飼ったりしなければよかった、と。 父さんの言うとおり、ちゃんとクロをかわいがってくれる人を捜して、その人にクロを頼めばよかったんだ、と。 なのに、クロが可愛いからってどうしても手放さなかった、そういう自分のわがままのせいで、クロに寂しい思いをさせて、そのあげく死なせてしまった。 クロを殺したのは、トラックじゃない、無責任な飼い方をした自分だ、そう言って、昇一兄ちゃんは、自分を責めて、何日も何日も泣き暮らしていた。 おまえの首につけていたこの鈴も、見るのがつらいと言って泣き出してしまう。 オレそんな兄ちゃんを見たくなかったから、だから鈴を預かって、ずっとそのままになっていたんだ。 なあ、クロ、おまえがいなくなってしまったことで昇一兄ちゃんがどんなにつらい思いをしたか、わかってやってくれ。 今でも昇一兄ちゃんの胸の中では、クロ、おまえはかけがえのない弟のはずだぞ」
マサキの言葉の一つ一つが、あたたかい雨のしずくのように、鎮魂の歌のように、薄明の荒野に降り注ぐ。
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