大吾君の話
1 月曜日
「それじゃ、大吾(だいご)君、また明日。算数教えてくれて、ありがとう」
学校から十五分くらい歩くと、佐竹(さたけ)神社の白い鳥居にぶつかる。
二手に分かれた道を右方向に高須(たかす)君はかけていった。
いつもなら、双葉(ふたば)君っていう子と三人で帰るんだけど、新しいゲームソフトを買ったから、とさっさと帰ってしまった。
ぼくも本当は帰りたかったが、割り算ができなくて苦しんでる高須君をほっとけなかった。
二人して、あーでもない、こーでもない、ってやってたら、時間がかかってしまった。
それなのに高須君といったら、「双葉との約束に遅れる」ってここまで早足で歩いた。
それがちょっぴり不満だった。
高須君が小さくなっていく。
ありがとうじゃなくって、みんなで一緒に遊ぼう、って言われたかったのに……。
ぼくは左へと歩く。
神社のうっそうとした緑のせいで、ひんやりとすずしい。
木々のかげがとぎれるころ、小さな橋につく。橋の下に、幅跳びの選手なら楽に飛びこえられそうな用水があった。
あのおじさん、今日も来てるんだろうか。
橋から神社のほうによった下流を見ると、やっぱりおじさんがいた。
つりざおがふわっとあがってつり糸が光った。これで五日間連続だ。
水がぼくのひざほどしかない用水路。
いったい、何をつろうとしてるんだろうか。
先週の木曜日に見かけて、金曜日、土曜日、日曜日と、用水路へとおりて、少しずつおじさんとのきょりをちぢめている。
おじさんは同じ所にいて、(ずっと見ていたわけじゃないが)お昼すぎから夕方までいるようだ。
おじさんのうしろには、神社の林。
前には田植え前の田んぼが広がってる。
取水用ポンプを置くんで平らになったとこに、いすを持ってきてこしかけていた。
ぼくはおじさんに近づいた。
じつはいつも、なんて声をかけようか、と考えてた。
最初の「あ」の口を開けたまま、おじさんの横顔を見つめた。あと五歩、四歩……。
「あのぉ、何をつってるんですか?」
「あのぉ、どうしていつもこっちをみてるんだい?」
おじさんが、つりざおから顔を上げてぼくを見た。
ぼくらは同じ「あ」から言葉をはじめていた。
「あっ」ぼくはえしゃくした。
「ああ」おじさんが返した。
「ああ、カモフラージュだよ」とくすっ、と笑い、
「ほらっ」とおじさんがさおを引きぬく。
うきの下に、石けんなんかをいれる口の大きく開いた網がついていた。
曲がった針金があてられたその中に、小石がぎっしりとつまっていた。
「なんですか?」
「うーん、学校の流しにある石けんを入れる網、ってしってる?石をこうやってつめておくと水のろ過になるんだ。」
おじさんがぼくを見つめる。
やさしい、草食動物のような目をしていた。
何かしても、包み込んでくれそうなそんな空気が全身から出ていた。
「じつは、ここで、考えごとをしてるんだよ。おじさん、この場所が好きでね。よくわからないけれど好きなんだ。たでも、ここってただの用水路で、ただ座ってたら変な人だと思われる でしょ? さおはカモフラージュだよ。遠目で見ている人が安心するでしょ。」
おじさんはゆっくりとしゃべる。おだやかな口調で言葉をえらんでいるようだった。
「ここにいてぼんやりしているのが好きなんだ。まぁ、楽しみといえば、あの橋を一人で歩く君や小学生が、無事に帰っていくのを見とどけることかもしれない。なんだかわからないけれどちょっとだけ役に立った気になるかな」
ぼくらは水面を見つめた。
まもなく田植えが始まるらしく、水は以前に比べ増えていた。
用水路の幅は二メートルくらいあっただろうか。おじさんのしていることはこの用水にとってたいして役に立たないのかもしれない。
「どうしてぼくをみていたんだい?」
おじさんは、ぼくがこっそり観察していることを知ってたらしい。
「あっ、なんか、楽しそうだな、と思ったから……。じゃまですか?」
「いや、ぜんぜん。かえって、こんなの見てて楽しいのか心配してた」
「楽しいです。」
自分でもびっくりするくらい、はっきりと応えた。
ぼくらはしばらく、うきをながめていた。小魚がうきをよけてつうっ、と泳いでいった。おじさんのそばにいると、しんせつな空気が出てくるみたいでおだやかな気持ちになった。
「明日もここによっていいですか?」帰るまぎわに声をかけたら、おじさんは笑ってうなずいてくれた。
用水にそった道を歩きながらふりかえる。さおがしなって、網が空中をくるくると回っているのが見えた。
(つづく)