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2007年09月24日
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カテゴリ:ここで一服
【上杉鷹山】出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。
宝暦元年7月20日(1751年9月9日) - 文政5年3月11日(1822年4月2日)。江戸時代中期の大名。出羽国米沢藩の第10代藩主。官位は従四位下侍従、官名は弾正大弼のちに越前守。
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領地返上寸前の米沢藩再生のきっかけを作り、江戸時代屈指の名君として知られている。諱は治憲(はるのり)だが、藩主引退後の号である「鷹山」の方が著名。墓所:米沢市御廟の上杉家廟所。上杉神社摂社である松岬神社に、祭神として祀られている。上杉鷹山は1751年、日向(宮崎県)高鍋藩主の二男として高鍋藩江戸屋敷で生まれる。母方の祖母が米沢藩第4代藩主綱憲(吉良義央と富子(第2代藩主定勝の娘)の長男)の娘であったことが縁で、10歳で米沢藩第9代藩主重定の養子となる。米沢藩後嗣となってから尾張出身の折衷学者細井平洲を学問の師と仰ぎ、17歳で元服。江戸幕府10代将軍徳川家治の一字を賜り「治憲」と改名する。
明和4年(1768)に米沢藩を継ぐ。受次ぎて国の司の身となれば忘るまじきは民の父母鷹山が17歳で第9代米沢藩主となったときの決意を込めた歌である。藩主としての自分の仕事は、父母が子を養うごとく、人民のために尽くすことであるという鷹山の自覚は、徹底したものであった。藩主とは、国家(=藩)と人民を私有するものではなく、「民の父母」としてつくす使命がある、と鷹山は考えていた。しかし、それは決して民を甘やかすことではない。鷹山は「民の父母」としての根本方針を次の「三助」とした。
すなわち、

・自ら助ける、すなわち「自助」
・近隣社会が互いに助け合う「互助」
・藩政府が手を貸す「扶助」


天明5年(1785)に家督を前藩主・重定の実子である治広に譲り隠居するが、逝去まで後継藩主を後見し、藩政を実質指導した。享和2年(1802)52歳の時、剃髪し「鷹山」と号する。この号は米沢藩領北部にあった白鷹山からとったと言われる。文政5年(1822)に死去、享年72。上杉家は関が原の合戦で石田三成に味方したため、徳川家康により会津120万石から米沢30万石に減封された。さらに3代藩主が跡継ぎを定める前に急死したため、かろうじて家名断絶はまぬがれたものの、さらに半分の15万石に減らされてしまった。上杉家は18世紀中旬には借財が20万両に累積する一方、石高が15万石(実高は約30万石)でありながら、かつての会津百 二十万石時代の家臣団6千人人を召し放つことはなく、このため他藩とは比較にならない程人口に占める家臣の割合が高かった。120万石当時の格式を踏襲して、家臣団も出費も削減しなかったので、藩の財政はたちまち傾き、年間6万両ほどの支出に対し、実際の収入はその半分ほどしかなく、不足分は借金でまかなったため、まるで現代の日本のような借金の上になりたった虚構の機構だった。実態は深刻な財政破綻におちいっていたのである。収入を増やそうと重税を課したので、逃亡する領民も多く、領民数は、かつての13万人が、重定の代には10万人程度に減少していた。
 武士達も困窮のあまり「借りたるものを返さず、買いたる物も価を償わず、廉恥を欠き信義を失い」という状態に陥っていた。名家への誇りを重んずるゆえ豪奢な生活を改められなかった前藩主重定は、幕府へ藩土を返上のうえ、領民救済も公儀に委ねようと本気で考えたほどであった。新藩主に就任した治憲は、民政家で産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政を重用し、先代任命の家老らと対立しながらも、自ら倹約を行って土を耕し、帰農を奨励し、作物を育てるなどの民政事業を行った。天明年間には凶作や浅間山噴火などから発展した天明の大飢饉の最中で、東北地方を中心に餓死者が多発していたが、治憲は非常食の普及や藩士・農民へ倹約の奨励など対策に努めた。また、祖父・綱憲(4代藩主)が創設した学問所を、藩校・興譲館(現山形県立米沢興譲館高等学校)として細井平州によって再興させ、藩士・農民など、身分を問わず学問を学ばせた。これらの施策で破綻寸前の藩財政が建て直り、次々代の斉定時代に借債を完済した。鷹山が行った施策の具体例は、

■「自助」の実現のために、鷹山は米作以外の殖産興業を積極的に進めた。寒冷地に適した漆(うるし)や楮(こうぞ)、桑、紅花などの栽培を奨励した。漆の実からは塗料をとり、漆器を作る。楮からは紙を梳き出す。紅花の紅は染料として高く売れる。桑で蚕を飼い、生糸を紡いで絹織物に仕上げる。鷹山は藩士達にも、自宅の庭でこれらの作物を植え育てることを命じた。武士に百姓の真似をさせるのかと、強い反発もあったが、鷹山自ら率先して、城中で植樹を行ってみせた。この平和の世には、武士も農民 の年貢に徒食しているのではなく、「自助」の精神で生産に加わるべきだ、と身をもって示したのである。やがて、鷹山の改革に共鳴して、下級武士たちの中からは、自ら荒れ地を開墾して、新田開発に取り組む人々も出てきた。家臣の妻子も、養蚕や機織りにたずさわり、働くことの喜びを覚えた。
■米沢城外の松川にかかっていた福田橋は、傷みがひどく、大修理が必要であったのに、財政逼迫した藩では修理費が出せずに、そのままになっていた。この福田橋を、ある日、突然二、三十人の侍たちが、肌脱ぎになって修理を始めた。もうすぐ鷹山が参勤交代で、江戸から帰ってくる頃であった。橋がこのままでは、農民や町人がひどく不便をし、その事で藩主は心を痛めるであろう。それなら、自分たちの無料奉仕で橋を直そう、と下級武士たちが立ち上がったのであった。「侍のくせに、人夫のまねまでして」とせせら笑う声を無視して、武士たちは作業にうちこんだ。やがて江戸から帰ってきた鷹山は、修理なった橋と、そこに集まっていた武士たちを見て、馬から降りた。そして「おまえたちの汗とあぶらがしみこんでいる橋を、とうてい馬に乗っては渡れぬ。」 と言って、橋を歩いて渡った。武士たちの感激は言うまでもない。鷹山は、武士たちが自助の精神から、さらに一歩進んで、「農民や町人のために」という互助の精神を実践しはじめたのを何よりも喜んだのである。
■天明の大飢饉をしのいだ扶助・互助。藩政府による「扶助」は、天明の大飢饉の際に真価を問われた。天明2(1782)年、長雨が春から始まって冷夏となった。翌3年も同じような天候が続いた。米作は平年の2割程度に落ち込んだ。鷹山が陣頭指揮をとり、藩政府の動きは素早かった。
・藩士、領民の区別なく、一日あたり、男、米3合、女2合5勺の割合で支給し、粥として食べさせる。
・酒、酢、豆腐、菓子など、穀物を原料とする品の製造を禁止。
・比較的被害の少ない酒田、越後からの米の買い入れ鷹山以下、上杉家の全員も、領民と同様、三度の食事は粥とした。それを見習って、富裕な者たちも、貧しい者を競って助けた。


全国300藩で、領民の救援をなしうる備蓄のあったのは、わずかに、紀州、水戸、熊本、米沢の4藩だけであった。近隣の盛岡藩では人口の2割にあたる7万人、人口の多い仙台藩にいたっては、30万人の餓死者、病死者が出たとされているが、米沢藩では、このような扶助、互助の甲斐あって、餓死者は一人も出なかった。それだけでなく、鷹山は苦しい中でも、他藩からの難民に藩民同様の保護を命じている。江戸にも、飢えた民が押し寄せたが、幕府の調べでは、米沢藩出身のものは一人もいなかった、という。米沢藩の業績は、幕府にも認められ、「美政である」として3度も表彰を受けている。
■鷹山は、領内の学問振興にも心をくだいた。藩の改革は将来にわたって継続されなければならない。そのための人材を育てる学校がぜひ必要だと考えた。しかし、とてもそれだけの資金はない。そこで鷹山は、学校建設の趣旨を公表して、広く領内から募金を募った。武士たちの中には、先祖伝来の鎧甲を質に入れてまで、募金に応ずる者がいた。また学校は藩士の子弟だけでなく、農民や商人の子も一緒に学ばせることとしていたので、これらの層からの拠出金が多く集まった。鷹山が藩主だった前期改革を鷹山の功績として讃えるケースが多いが、前期改革は頓挫して隠居、米沢藩の再建が実現したのは、鷹山隠居後実施された「寛三の改革」によるものであり、幕府から美政を讃えられるほどの健全財政が実現したのは、鷹山の死の翌年である。35歳で重定の子治広に家督を譲った時に、以下の3カ条を贈った。これは「伝国の辞」と呼ばれ、上杉家代々の家訓となる。

・国家は、先祖より子孫へ伝え候国家にして、我私すべきものにはこれなく候
・人民は国家に属したる人民にして、我私すべきものにはこれなく候
・国家人民の為に立たる君にて、君の為に立たる国家人民にはこれなく候


これは、封建時代にあっては驚くような民主政治の精神である。当時の藩主は、臣下や領民を私有物と考えてその根拠を疑うこともなかった時代に、このような考えを子々孫々にまで伝えようと言う鷹山の姿勢には、深く頭(こうべ)を垂れざるをえない。「為せば成る為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり」の歌は「伝国の辞」と共に次期藩主に伝えられたが、「してみせて 言って聞かせて させてみる」の言葉も残しており、山本五十六に強い影響を与えたとされる。また、アメリカ合衆国第35代大統領ジョン・F・ケネディや第42代ビル・クリントンが、日本人の政治家の中で一番尊敬している人物として上杉鷹山を挙げている。その問いをケネディに発した記者は、上杉鷹山の名前を知らなかった。上杉鷹山と黒田長舒(ながのぶ) 福岡秋月藩第8代藩主黒田甲斐守長舒(ながのぶ) は、日向高鍋藩主秋月種茂の二男である。秋月種茂は上杉に養子にいった上杉鷹山(治憲)の兄。秋月種茂・治憲兄弟の母が黒田長貞の娘、春姫。また黒田長貞の妻、豊姫は米沢藩第4代藩主綱憲の娘である。江戸、その他での付き合いを通じて侍たちは、結構全国的な姻戚関係を造っている。

イギリスの女流探検家イザベラ・バードは、明治初年に日本を訪れ、いまだ江戸時代の余韻を残す米沢について、次のような印象記を残している。南に繁栄する米沢の町があり、北には湯治客の多い温泉場の赤湯があり、まったくエデンの園である。「鋤で耕したというより鉛筆で描いたように」美しい。米、綿、とうもろこし、煙草、麻、藍、大豆、茄子、くるみ、水瓜、きゅうり、柿、杏、ざくろを豊富に栽培している。実り豊かに微笑する大地であり、アジアのアルカデヤ(桃源郷)である。自力で栄えるこの豊沃な大地は、すべて、それを耕作している人びとの所有するところのものである。・・・・・・美しさ、勤勉、安楽さに満ちた魅惑的な地域である。山に囲まれ、明るく輝く松川に灌漑されている。どこを見渡しても豊かで美しい農村である。この桃源郷を作り上げたのは、鷹山の17歳から55年にもおよぶ改革が火をつけた武士・領民たちの自助・互助努力だったのである。美しく豊かなのは土地だけではない。それを作り出した人々の精神も豊かで美しい。病人や障害者は近隣で面倒をみ、老人を敬い、飢饉では富裕なものが競って、貧しい者を助ける。鷹山の自助、互助、扶助の「三助」の方針が、物質的にも精神的にも美しく豊かな共同体を作り出したのである。

「為せば成る」を実現するためには理由がある。上に立つ者が部下・社員を「父母が子を養うごとく、人民のために尽くす」気持ちをもつことである。「こいつは何をやってもだめだ。働きの悪いやつはこの機会に給料を下げてやろう。」という気持ちでは「為せば成る」は実現しないであろう。出来の悪い子が自分が出来が悪いことくらい自覚しているはずである。その子供を慈しんでこそ「自助」の心が芽生える。国でも会社でも同じである。





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最終更新日  2007年09月24日 10時14分48秒
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