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私の人生論 (思考が運命になる)

私の人生論 (思考が運命になる)

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2024年05月16日
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カテゴリ:認識の歩み


倭冠は鎌倉時代にも見られましたが、
西国の土豪が組織した海賊、
いわゆる前期倭冠は、
米と奴隷の略奪を目的として
朝鮮半島から支那の北部、
さらに南部にまで進出して猛威をたくましくし、
倭冠の至るところ人民一空すと恐れられました。

一三六八年、元に代って国を興した
明の太祖洪武帝は翌年倭冠の禁圧をもとめ、
朝貢をうながす使者をわが国に送ったが、
当時九州にあった征西将軍宮懐良親王は、
その書辞の無礼を怒ってこれを拒絶しています。

義満は、一四〇一(応永八)年
九州探題に命じて倭冠を取締らせるとともに、
博多商人肥富某の献策により、
彼を使節とし、僧祖阿とともに、
明に派遣し、倭冠が略奪してきた支那人を
返遺するとともに国書・方物を贈って
通交をもとめました。

義満は不安定な幕府財政を、
貿易の利益によって補おうとしたのです。

翌年使節の帰朝に際して、
明の答礼使節が同道しましたが、
その国書に義満を
「日本国王源道義」としてありました。

義満は翌年成祖永楽帝の即位を賀した国書に、
みずから「日本国王臣源」と書き、
明の年号を用いて、体面をけがすものとして
非難されています。

しかし、一四〇七(応永二)年、
倭冠が略奪したシナ人を返還した時、
成祖から義満に贈られたのが
銅銭二〇、〇〇〇貫文であったところから見ても、
彼にとっては、名分や体面よりも、
貿易の益を求めたのです。





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最終更新日  2024年05月16日 05時10分09秒
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