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カテゴリ:雑考生活
今回のアテネ五輪女子マラソン代表選考会の結果は、後から言うのはズルイと言われそうだが、ワタシの予想通りの結果であった。個人的には、Qちゃんこと高橋尚子選手のことは尊敬するし、正直なところ彼女が2連覇をかけてアテネを走る姿を見てみたかったという思いはいまだに強い。しかし、Qちゃんは選ばれなかった。
過去の実績を重視するか、選考レースでの記録をとるか、といった選考過程における委員会の苦悩は、すでにあちこちに散々報道されていることなのでここでは問題にしない。ワタシが言いたいのは、他の選手の記録との比較の中でどうこうというよりも、とにかく「高橋尚子という人はなぜ選ばれなかったのか」という1点である。 気象条件がどうだったとかコース条件の良し悪しといった専門的な話は詳しい方におまかせするとして、ワタシは一方で全然違う方向から今回の結果を見ている。 高橋選手にとっての最大の悲劇は、彼女が偉大なランナーに成長したのと同時に、あの愛嬌のある表情と性格によって「タレント」になってしまったことにあるのではないか、と思っている。では、タレントであることが、なぜ良くないのか。 オリンピックというのは、今や「健全なる肉体と精神の競演」というだけのものではなく、そのメディア放映権ひとつとっても巨額のお金が動くビッグビジネスの舞台である。そのビジネスの大舞台の中においても、「女子マラソン」というのはとりわけ注目度の高い花形種目だ。そうなると、当然ながら出場する選手=配役のラインナップ次第で、テレビ放映の視聴率やスポンサーの協賛金がガラリと変わる可能性がある。 そうなると、当然ながら今回の選考委員会に対してもメディア側あるいはJOCそのものからなんらかの圧力がかかっているであろうことは想像に難くない。そこで、 「女子マラソン」というプログラムにおいて、高橋尚子という配役はどうなのかというと、「タレント」であるが故に、彼女の評価はマラソン選手としての真の実力とは別のところで、「このヒトに商品価値があるのかないのか」「このヒトで視聴率が取れるのかとれないのか」といった側面から判断がなされてしまう、と。 そして結論としては「うーん、ちょっとQちゃんも旬が過ぎちゃったし、商品価値としてはどうかねぇ…。やはり今回はフレッシュな顔ぶれの方が…。」みたいなことだったのではないか、という意見はちょっと穿ちすぎかなぁ…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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