この衆院解散は合憲か(9日の日記)
高市早苗氏に関する違法な企業献金(裏金)や統一協会との知られざる関係が週刊誌で報道され始めて、自らの「危機」を関知した首相は、その報道が廣く国民の知るところとなる前に「解散・総選挙」に持ち込んで、あらゆる「疑惑」を「ご破算」にすることを目論んで、その前週までは「解散など考えるヒマは無い」などと言っていたことをサラリと捨てて、いきなり自己都合解散に踏み切ったのであったが、これは明らかに解散権の濫用であり違法であると、毎日新聞専門編集委員の伊藤智永氏が、1月24日付け同氏コラムに、次のように書いている; この衆院解散は憲法精神に照らし正当か。あえて疑問を呈す。 解散は、主権者国民の選んだ衆院議員全員を任期満了以前にクビにする強権発動だ。専制国家ならクーデターにも等しい。 解散規定は、憲法69条にある。「内閣は、衆議院で不信任の決議案を可決し、または信任の決議案を否決したときは、10日以内に衆議院が解散されない限り、総辞職をしなければならない」 議院内閣制は、国民の選んだ国会議員が互選で首相を指名し、内閣が作られる。内閣が国会の信任を失えば、総辞職するか、衆院を解散して、国民に信を問う。 解散権は、立法(国会)・行政(内閣)・司法(裁判所)の三権が、相互に抑制し権力の均衡を図る仕組みの一つとしてある。 だが現実には多くの解散が憲法7条を根拠にしてきた。「天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行う」の3番目に衆院解散がある。首相が決めれば国事行為として解散できるという理屈だ。 違憲訴訟も起きたが、最高裁は「極めて政治性の高い国家統治行為」として判断を回避。以来「首相の専権」「伝家の宝刀」と呼ばれ、首相の大権であるかのような決めつけがまかり通ってきた。 それでいいのか。保利茂元衆院議長が在職中の1978年7月、衆院法制局の意見も踏まえて作成した「解散権について」という原稿用紙16枚の手書き文書がある。前年、就任1年未満の福田赳夫首相周辺が、早期解散を探っていると知り、「議長見解」として公表するつもりでまとめた。 「内閣に解散権があるといっても、明治憲法下のように内閣の都合や判断で一方的に解散できると考えるのは現行憲法の精神を理解しておらず、適当でない」 7条解散は「内閣の恣意(しい)によるものではなく、あくまで国会が混乱し、国政に重大な支障を与えるような場合に、立法府と行政府の関係を正常化するためのもの」で、「69条解散の精神が流れていなければならない」とした。 保利氏は79年3月死去。後任の灘尾弘吉衆院議長が諮問機関で協議し、国会で決議しようと提案したが、自民党が渋った。 それでもかつての7条解散は、まだ謙抑的だった。「内閣の助言と承認」を得るため、首相が反対の閣僚を罷免したり、閣僚たちの反対で断念したりしたこともある。 何より「国民のために」の言葉は重い。安倍晋三元首相以来「自分のために」勝てそうなら解散するのが習い性になった。憲法精神に背いている。(専門編集委員)2026年1月24日 毎日新聞朝刊 13版 2ページ 「土記-この衆院解散は合憲か」から引用 上の記事が指摘するとおり、内閣が衆議院を解散出来るのは国会が内閣不信任案を議決したときであって、不信任案の決議もないのに解散するのは、憲法の条文を自分の都合のよいように読み替えているからであって、それは違法行為である。従って、恣意的な解散に対して、実際に「違法な解散は無効である」との訴訟が起きた場合に、裁判所は純粋に法理論の立場から最低を下すべきであった。しかし、日本の司法は行政に対する如何なる弱みがあるのか、昔から行政権力に対して毅然たる態度を取ることが出来ず、「政治性の高い国家統治行為」だから裁判所の判断になじまない、などと変な理屈を並べて判断を回避したから、自民党の「腐敗政治」に温床を提供する事態となってしまっている。そのような状況の中で仕組まれた「自分勝手解散」で、与党は単独310議席となり、これを再び少数与党に追い込むにはしばらく時間が必要になるかも知れないが、やがては「自分勝手解散」を現に禁止する法律を制定しなければならないと思います。