駆け出しの頃、ギルガメッシュナイトでずいぶんお世話になった飯島愛さんが亡くなった。
個人的な付き合いもあったのに、あーたんの時みたいにあふれるほどの涙が出る事もない。
長く連絡をとってなかったせいもあるけども、なんだか現実味が感じられない。
リアルに感じるのは近いうち訪れるであろう自分の死とダブるという点だけだ。
だからうらやましいとすら感じているのかもしれない。
少なくとも愛ちゃんにはたった数日連絡がとれなくて心配してくれた友人がいて、死んだ事をこれだけの人が悲しんでくれている。
俺の死体放置はまちがいなく半年以上だ。もう原型をとどめる事もないだろう。
しかも、それに気がつくのは友人ではなく近所の人が腐敗臭を感じてだろう。
そして、俺の死を知る人はごくわずかなのだろう。せいぜい親くらいかな
だからせめて親より先に死ななくては、完全な死体放置になってしまうのだろうな。
そんな寂しすぎる自分の死体を想像すると、やっぱりぞっとする。
今の俺には生きる意味が少しある。
だけど死ぬ意味はその10倍もある。
死ねば恋人に会えるかもしれない。会えないかもしれない。だけど生きていれば確実に会えない。
生きていれば ひょっとしたらいつか幸せを感じる事があるかもしれない。
だけど、死んだらもっと幸せな気がする。
そんな事は生きてみなきゃわからないし
そんな事は死んでみなきゃわからない
"どうせなら生きてみよう"と"どうせなら死んでみよう"は同じ次元なんじゃないかとすら思えてくるよ。