ザルツブルク音楽祭その3 クルレンツィス&セラーズ「皇帝ティトの慈悲」
今回のザルツブルク音楽祭の大本命、クルレンツィス指揮セラーズ演出の「皇帝ティトの慈悲」。フェイスブックに投稿していたら長くなってしまったので、大変恐縮ですがこちらにもその投稿を貼り付けます。写真はフェイスブックで見ていただければ幸いです。 今回のザルツブルク音楽祭最大の目的、クルレンツィス指揮セラーズ演出「皇帝ティトの慈悲」。すごい演奏、というか、すごい公演でした。モーツアルト・オペラの上演のマイルストーンになりうる公演だと思います。情報量が多くて、また日本語でどう表現していいかわからないこともあり、まだ頭の中でうまくまとまらないのですが。。。まず、この公演は、いわゆる世間一般の?「皇帝ティトの慈悲」ではなく、「皇帝ティト」を土台にした、セラーズ&クルレンツィスによる、「モーツァルトのある面を集大成したモニュメント」だということ。セラーズは、「ティト」のテーマは「許しと和解」だと語っています。それを尊重しつつ、より「モーツアルト」の真髄に迫るため、作曲のときに時間がなくてジェスマイヤーに任せたレチタティーヴォをカット。さらに、ティト暗殺未遂に際して、本作に「スピリチュアルな瞬間」がない、などの理由で、「ハ短調ミサ曲」を第2幕の冒頭をはじめ数カ所に挿入。また、台本ではセストに暗殺されるのはティトではなく他人ですが、今回はセストに襲われたのはティト本人で、重傷を負い、最後は死ぬ設定です。筋書き的にはこちらのほうがすっきりします。だって襲われたのは実は他人だったって、ほんとうはおかしいですからね。なので、ティトは息をひきとる間際に皆を許すのです。そして彼の葬式の場面が続き、「フリーメーソンの葬送音楽」が流れます。オペラの演出に際して、その作品以外の曲を入れるのは、ヨーロッパではしばしばあります。なかには、驚かせてやろう的な、必然性を感じないものも少なくありません。けれど今回はまったく違和感がありませんでした。コンセプトが一貫していたことと、演出家と指揮者の双方に「モーツァルトの本質に迫る」目的が共有されていたからだと思います。同時に演出家も指揮者も、モーツアルトのスペシャリストであり、モーツアルトを知り尽くしている。セラーズといえば、20世紀の終わりに、ニューヨークを舞台にした衝撃の「ダポンテ三部作」の演出で世界を沸かせ、クルレンツィスはこの数年の「ダポンテ三部作」の録音で新風を巻き起こしました。だからこそ説得力を持つ解釈ができたのです。奇をてらったものではまったくないのです。セラーズの演出は、いわゆる昨今の「テロの悲劇」を前面に押し出したもの。ティトのモデルはネルソン・マンデラ!です。ティトと、部下のプブリオをはじめ多くのキャストが黒人歌手というのも本プロダクションの特色です。これは多分セラーズの意図でしょうが(彼が演出した「ドンジョヴァンニ」も黒人歌手でした)、よしあしがあると思います。。。今後このプロダクションを上演するときに、今回黒人だったキャストはみんなそうしなければならないのか?これはなかなか微妙な問題です。少なくとも一部のキャストは、この作品に向いた声ではなかったので、声を優先するのか、その意味でのヴィジュアルを優先するのか。。。。まあ、セラーズの母国アメリカには、黒人キャストで上演されることが一般的な「ポギーとベス」というオペラもあるわけですが。隣に座った地元の紳士と色々話していて、「政治的な演出ですよね」と言ったら、「モーツアルトは政治的でしょう、フィガロもドンジョヴァンニもそう」と言われて我が意を得たりでした。よくネットで「音楽や芸術に政治を持ち込むな」という投稿を目にしますが、おかしいと思うよ。「今」を生きていれば政治のことが気になるのは当たり前です。「歴史」を振り返るのも同じ。歴史に興味があるのは「今」に興味があるからです。歴史の延長線上に「今」があるのですから。クルレンツィスの音楽についていえば、「モーツァルトは大人の音楽」だと痛感しました。素晴らしい演奏なんですよ。完璧すぎるほど。とても細やかで、すみずみまで行き届いていて、音の隅から隅まで描き切る。とくにピアニッシオの部分はそうです。その行方を見届ける緊張感!なので、すごいんですが、かなり緊張を強いられます。アグレッシブな部分の盛り上げ方はさすがですが。あと、ピリオド楽器なので、どうしても音色的には地味ではあります。ここ一番、というところでは、奏者がピットのなかで立ち上がって迫力満点に鳴らしていましたが。(このオケ、ふだんのコンサートは立って演奏することでも有名です)なので、ゴージャスでドラマティックで、なんというか、大人から子供まで?楽しめる遊園地のようなバッティストーニの「トゥーランドット」とはやはり違うのです。でもモーツアルトって本来はそうなんだと思うんです。きれいで甘いモーツアルトなんて、5分聴いたら飽きます。あれはBGM用です。ほんとうのモーツアルトは顕微鏡で見たくなるような細かい表情に満ちていて、よく噛まないとよさがわからない音楽なのかもしれない。とくに「通」を意識して書かれた音楽は。18世紀だから、音楽はまだまだ一部の階級のためのものであったのですから。一方で、今回は(荘重なテーマを抱えた)演出のせいもあったのか、上のような理由でレチタティーヴォをカットしたせいもあったのか、彼とムジカエテルナが得意とする即興や遊び心はかなり抑えられていました。暴れまわっていたのはAbashevとShabashovaによるフォルテピアノくらい。フォルテピアノがどこにいるのかと思ったら、指揮台にピタリと寄り添っていたのでした。(写真参照)実は、演奏としては、挿入された「ハ短調ミサ曲」の部分がすごくよかったんです。最初のほうで、「やっぱり昨日聴いたヘンデルとは半世紀違う音楽だなあ」と思いながら聴いていたら、急に「ヘンデルか!?」と感じさせるような古臭い、つまりは教会の音楽が聴こえてきて、その落差に耳を疑ってしまいました。教会音楽はやっぱり伝統的な古いジャンルなんだということが見事にコントラストされていた。加えて、合唱曲ばかりだから、ムジカエテルナ合唱団が「むちゃくちゃうまい」というのがよくわかりました。ピリオド系の合唱団はうまいのが多いですが、ここもほんとにうまいです。今回のプロダクション自身がスピリチュアル的なテーマを設定していることも関係しているのかもしれません。終演後、3年間準備しているという彼らの「ロ短調ミサ曲」がむちゃくちゃ聴きたくなりました。すごいだろうなあ。歌手のいちばんはセスト役のフランスのメゾ、マリアンヌ・クレバッサ。きゃしゃな体から湧き出るシャープなよく通る声、完璧なテクニックと敏捷な演技。第1幕の、バセットクラリネットのオブリガート付きのアリアでは、バセットクラリネット奏者が終始舞台上で演奏していて、彼と絶えず絡み(寝ながらバセットクラリネットを吹く!)、大喝采を浴びていました。こちらのレビューでも「新スター誕生!」と騒がれています。それにしても、やっぱりいわゆるクラシック音楽って、「演奏」次第なんですよ。今回のザルツブルクで改めて痛感しました。もちろん第一は「作品」なんですが、「演奏」つまり「解釈」で天と地ほど違う。はたから見ていると、「演奏」についてわいわいいうのは「マニアック」に見えるのだろうと思うのですが、しかたのないことなんです。だって「皇帝ティト」にしろ「アリオダンテ」にしろ「2人のフォスカリ」にしろ、オペラのレパートリーのなかではマイナーな作品。それが上演され、高く評価されるのは、クルレンツィス&セラーズ、あるいはバルトリ、あるいはマリオッティ(とドミンゴ)がいるから、なのですから。「皇帝ティト」の客席にはバルトリがいました。どう思ったかな。きいてみたいところです。