ヒストリー・オブ・フールズ
「オッペンハイマー」は、ナイチ帰宅中の埼玉の方で観ることにした。電車で数駅のユナイテッドシネマにて、隣接するフードコートで腹ごしらえの後、夜の回を鑑賞、ちょっと小さめのスクリーンだな、浦添ならアイマックス上映もあったけど。しかも会員割引の日でも1,300円かい。ともあれ、クリストファー・ノーラン監督作品はちょっと苦手で、これまで少し避けてきた感じだ。でも、さすがにこれは観ないとなあと思って。映画の作りは、やはり苦手なノーラン調だ。オッペンハイマーの心情を表すような不安な画調、ややサイケな映像。そして、音楽が常に鳴り響く。不安を掻き立てるような重低音や弦楽器の響き。映画は始終、緊張感が漂う。オッペンハイマーを演じるキリアン・マーフィの表情は、ピュアな子供のようでもあり、神経症の大人のようでもある。周囲の人物がやたら多く、かつ、誰がどんな役割の人なのか分かりにくいけれど、特に目立つのは、まずやはり、ロバート・ダウニー.Jr演じるルイス・ストローズだ。靴屋から成り上がった政治家?日本版ウィキ等でもないけれど、とにかく野心満々の人物だったようだ。元々、演技派だったダウニーの、オスカー受賞は頷けるけど、授賞式での、あの態度はいただけなかった。そのダウニーといい、軍の将校を演じるマット・デイモンといい、敢えて老け役を演じているようだ。デイモンは役作りのために太ったのだろうか。ケネス・ブラナーは、オッペンハイマーの心の師的な役どころのようだ。そして、出番は少ないながらも印象に残るのは、あの“ミスター・ローレンス”トム・コンティ演じるアルバート・アインシュタインだ。尤も、彼は既に過去の人と化しているような描かれ方だったけど。そして、現在の人がオッペンハイマーその人だ。当初は、ナチスを止めるためという大義名分があった。しかし、ナチスが降伏した後も原爆の開発は続行、ロスアラモスで実験が行われる。そこが一つのクライマックスだ。成功を喜ぶ開発者、関係者たちの様子に背筋が寒くなる。賞賛を浴びるオッペンハイマーの不安感以上に、日本人なら戸惑いと違和感を覚えざるを得ないだろう。開発の過程と、戦後のオッペンハイマーのスパイ疑惑の模様が並行して描かれるので、時系列ではないので分かりにくい。これがノーラン調なんだよね。英雄から一転、糾弾される立場になるオッピーだが、罪の意識故か、抵抗を示さない。これもストローズの嫉妬、怨恨によるものらしいけれど、そんな夫の優柔不断さに、妻のエミリー・ブラントは始終、苛立ちを隠さない。夫婦関係は続いたようだけど、オッピーは不倫もしていて、愛人フローレンス・ピューの裸は、やたら登場する。どういう意味があったのかな。広島の被曝の惨状の映像をオッピーが見るという場面があるけれど、直接的には描かれない。それでも、開発者としての苦悩を抱えたことは理解できる。原爆を落とした張本人で、恨まれるのは自分だと宣うトルーマン大統領は、ゲイリー・オールドマンが演じていたそうだけど、わからなかった。心の師のニールス・ボーア教授や、アインシュタインは、研究の成果が及ぼす結果を把握していたようで、オッピーが直面する葛藤を予感もしていたかのようだ。脇で登場するラミ・マレクが終盤で、実は重要な役どころとなる。オッピーが水爆の開発には反対したというのは、原爆の父である自らの存在が薄れてしまうためだったのか。その、水爆の父のエドワード・テラーは、オッピーに不利な証言をして窮地に陥れる。テラーは水爆開発に関して何の後悔も抱いてなかったそうで、コイツこそゴジラにふんずぶされて然るべき人物だったろうか。勿論、単純な悪役としては描かれていなかったけれど。こんな具合に、やっぱり、ノーラン調、一筋縄では行かない映画だ。でも、それ故にオスカーには、むしろ、ふさわしい気がした。分かりやすい感動作ではない故に。この世は白や黒、単純な善悪では割り切れないのだ。原爆が戦争を終わらせるために必要だったのだという、アメリカ人の見方には、勿論、共感はしかねる。一方で、原爆でもぶち込まない限り、日本が降伏しなかった可能性はあったかも知れないと、近年の日本のバカさ加減に直面すると、思えなくはない。こんな兵器を開発した側も、その要因を作った側も共に愚かだ。日本の惨状が描かれなかったからと、この映画の価値を疎んじるのは適切ではないと思う。歴史を振り返って、未来を慮っていく。そう、信じていかないと、愚か者の歴史が続いていくのだ。