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小田急線開通90年(10)
懸命に守ったアルバム 家族の一番大切な物、お金で買えない物、それはアルバムでした。 台風による大雨で増水した多摩川の流れが土手をえぐり、川沿いの家屋の流失の恐怖が迫りました。我が家を離れて一旦避難した住民が「アルバムを取りに戻りたいんです」と警戒中の警察官に懇願……19棟の家屋が流失・倒壊した多摩川水害を題材に制作され、3年後に放映されたテレビ番組「岸辺のアルバム」の一場面です。 1974年8月31日早朝から9月1日夕方にかけて、台風の影響で多摩川の上流では527mmもの雨が降り、多摩川の水位は8月31日から上昇を続けました。小田急線の和泉多摩川駅に近い東京都狛江市付近では川の中央に設けられていた堰が多量の流水を通しきれず、川の流れが堰を避けるように堤防の方へ向かい、河川敷の土を削り始めました。 現場付近の地図 狛江市は9月1日午後6時過ぎ、市内の多摩川に近い猪方、駒井などの地域に避難命令を出しました。周辺の住民数千人は近くの小学校、中学校に避難しました。避難した人々が初めに想像していたのは川の水が堤防を越えて自分の家が浸水する程度のことだったでしょう。まさか自分の家が流されるとは思っていなかったでしょう。しかし、午後10時過ぎ、猪方で堤防が破壊され、濁流が住宅地に近づいてきました。家屋の危機を知り自宅へ貴重品を取りに戻ろうとする人が相次ぎましたが、流れに近い区域はロープが張られ、立入り禁止となっており、取りに行けた人、取りに行けなかった人と明暗が分かれました。 川岸では多くの自衛隊員、消防署員などが土のうを積むなどして浸食を防ごうと懸命の努力をしましたが濁流の勢いは強く、危険な状況は続きました。 当時の新聞記事が刻々と変化していく状況を語っています…… ・狛江市では1日午後6時過ぎ、災害対策本部を設置、市内4地区に避難命令を出した。避難命令が出たのは猪方、駒井、岩戸地域の一部で、住民たちは午後7時頃から近くの小、中学校へ続々と避難を始め、周辺はまるで戦場のような騒ぎとなった。同9時40分には数千人が避難を終わった。 ・31日夜から増水を始めていた多摩川は1日午後10時15分頃、猪方で堤防の一部が長さ50mに渡って決壊し、一部が市内区域の浸水を始めた。 ・多摩川は次第に減水し始めているが、堤防を洗う水圧は依然強く、補強の土のうも次々に流され危険な状態が続いている。 ・1日午後9時過ぎ、約500人の警視庁機動隊員と500人の自衛隊員が堤防付近で復旧作業に取りかかった。チェーンソーで付近の木を切り倒したり、土のうを築いたり、杭を打込むなど作業はみるみる進んだ。 ・同夜9時35分、「あと30分の勝負だ」と作業を続ける機動隊員らを励ますマイクが流れた。が、その直後、濁水が堤防からすぐ近くの民家の庭に入り込み始めた。 ・「救命胴衣を付けていない者は下がれ」と指揮官が叫ぶ。隊員らはリレー式で必死に土のうを運んだ。ナイターのように堤防が赤々と照らし出された。 ・流れ込む水が増え始めた。午後10時過ぎ、機動隊も支えきれず現場付近から撤収を始めた。 ・午後10時14分、堤防は幅6m、長さ約50mに渡り完全に決壊した。しかし、この頃は水位がかなり下がっていたため、激しい濁流の浸水はなかったが、民家の庭に積まれた土のうも濁流に洗われ始めた。 ・午後11時50分すぎ、ついに●●さんの家が倒壊した。 ・堤防がえぐられた現場は狛江市猪方の多摩川左岸。水位が警戒水位の2m30を超えた午後3時すぎ、まず下部がえぐり取られた。濁流は本堤防と、その内側にある遊園地やテニスコートになっていた河川敷の、ブランコや鉄棒なども根こそぎえぐられるすごさ。 ・この河原には約9万9000㎡の野球場や和泉自動車教習所、狛江児童公園があり、夕方には中堤防(幅5m)が決壊し、公園にあった鉄棒やジャングルジムなどが押し流されてしまった。 ・1日午後10時14分、川に積み上げた土のう阻止線がドーッという濁流にあっ気なく、押し流された。堤防の下では陸上自衛隊、消防署員、機動隊員約2,000人が土のうを担ぎ、立ち木を切って最後の阻止線を造りあげた直後のことだった。 ・投光器と満月に照らされた濁流が見る間に5m程の幅の土のうを切り崩した。 ・怒り狂ったような濁流が狭い突破口にドッと押し寄せ、見る間に“傷口”を押し広げ、民家のカベにぶつかった。カベを突き破った水は見る間に4軒の家になだれ込んだ。さらに濁流は物置をあっという間に飲み込む。 ・現場の指揮官が阻止線をさらに後退させた。阻止線の前にある4軒の民家をあきらめたのだ。 ・1日午後11時過ぎ、現場は深い霧に包まれた。投光器が不気味な濁流の牙をくっきりと映し出す。突然、バリバリというすさまじい音が響いたかと思うと、新築間もないような二階建てのしょうしゃな家が濁流の渦の中に消え落ちた。 ・それまでの土のう運びの列がピタッと止まり「全員避難しろ」という指揮官の興奮した声が響く。阻止線はさらに後方に下げられた。二階建ての住宅が十数戸並ぶ前に作られた第二次阻止線も破られたのだ。土台を濁流が洗い、千人余りの機動隊員や自衛隊員も自然の強大な威力の前にぼう然と立ちすくんでいた…… 住宅地を浸食した濁流は河川敷にある和泉自動車教習所の練習コースにも迫りました。濁流が迫る中でコースでは落着いて教習できる状況ではなく、路上教習に行くにも付近の道路は避難する住民、家財を運ぶ車、復旧資材を積んだトラック、報道関係の車などで溢れ、通行するのに困難を極めたことが想像されます。 その後、狛江市長から堰を爆破して流れを変えてほしいとの要請で自衛隊と建設省は9月2日午後2時頃から9月4日午後8時頃まで約10回にわたって堰の爆破を行ない、「堰を切る」ことに成功し、住宅地を浸食していた流れを止めることができました。また、教習所のコースに迫っていた流れはコースの端から約20mの所で止まりました。 復旧工事 復旧工事は初めに仮復旧工事として本堤防の内側の小堤防の復旧工事が行なわれ、9月6日に終了しました。そして、本復旧工事が渇水期の12月から翌年の1975年3月にかけて行われました。工事内容は本堤防において鋼矢板を打込み、コンクリートを張り付け、テトラポッドで根固めをするという万全の施行がなされ、流失宅地の復元も行われました。 決壊の原因 当時の宿河原堰は多摩川右岸(川崎市側)にある灌漑用水の二ヶ領用水に取水するために1947年に築造されました。しかし、多摩川のような平野部での大河川に設置される堰としては高すぎ、可動部が小さかったため、500mmを越える雨量で増水した流れを通すことができず、流れが狛江市側の堤防の方向へ向かってしまいました。また、当時の狛江市付近の堤防は1935年頃築造されましたが、構造は砂利と砂で、被覆土の上に芝が植えられている程度で、コンクリートによる被覆はされていませんでした。このため大規模な決壊に至ったと考えられています。 宿河原堰の改良 その後、宿河原堰は可動部が大きく、低い堰とするための工事が行なわれ、1999年に完成しました。 現在の宿河原堰(2017年撮影) 多摩川決壊の碑 また、同じ1999年、宿河原堰の少し上流の狛江市側の河川敷に水害の教訓を後世に伝えるための「多摩川決壊の碑」が建立されました。この碑は三角錐の形で、それぞれの面に「碑銘」「決壊の経過を記した碑文」「上空から撮影した決壊時の写真」が刻まれています。 「多摩川決壊の碑」(2017年撮影) 決壊の経過を記した碑文(2017年撮影) 上空から撮影した決壊時の写真(2017年撮影) あれから43年、今では決壊当時の痕跡は見当たりません。何ごともなかったかのように多摩川は流れ、人々が多摩川の自然に親しむ姿が見られます。ただ、「決壊の碑」が大変だったあの頃の住民の思いを今に遺しています。 決壊箇所の現在(2017年撮影) 参考図書、ウェブサイト: 「多摩川狛江市猪方地先災害復旧記録」 社団法人関東建設弘済会 2007年発行 「多摩川堤防決壊記録」 狛江市役所 1975年発行 国土交通省 関東地方整備局 京浜河川事務所HP「多摩川」 (つづく) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2023.03.05 09:07:05
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