テーマ:戦争反対(1187)
カテゴリ:戦争反対
千茶庵と戦争
小生は1943年12月13日に東京の下町、台東区に生まれた。 終戦は1歳8ヶ月の頃、疎開先の両親の実家近くの福井県鯖江市で迎えた。が記憶はない。 父は1946年2月に病死した。しかし 小生の2歳2ヶ月頃でこれも記憶はない。 「戦争体験」のテーマが男声合唱団昴から与えられたが、それを書くことは出来ない。しかし、小生と戦争について少しだけ書くことにした。 (1)1945年3月10日、小生が1歳3ヶ月のとき、東京大空襲があった。 深夜の0時8分からB29爆撃機344機により下町40k平方メートルの周辺にナパーム製焼夷弾で家を焼き、円周上ぐるりと囲むように炎が燃え盛り、人々を逃げられないようにし、その後、円内の炎に逃げ惑う人々の上に1万2千発もの爆弾を投下した。 2~3時間のうち10万人ともいわれる人が犠牲になった。 小生が産声をあげた台東区(当時下谷区)は上野の動物園の東側の下町であり、当時の家は見事に全焼した。 もしその時そこにおったら、間違いなく今歌っていることはないだろう。 10万人の犠牲者の一人に加わっていたことだろう。 さいわい福井県に疎開していて助かったわけで、小生と戦争は無関係ではなかったわけだ。記憶にない体験である。 (2)12月13日が小生の誕生日である。1943年生まれだが、その6年前の1937年12月13日が南京大虐殺の日だ。 6番目に生まれたが、3番目か4番目に生まれてたら、記憶にない戦争体験となっただろう。 南京事件を歴史から消し去ろうとする右翼的流れがあるが、小生の誕生日がその日であり、他人事とは思えない。 南京事件にこだわり紫金草をうたう理由の一つである。 (3)鯖江では中学を出るまで住んだが、わらぶき屋根の1軒家で隣とかなり離れており他方は竹薮と田んぼで、大きな声で歌っても誰にも憚ることなく歌えた。 兄弟は母子家庭の貧しい暮らしを支えるべく、上から順に東京や大阪に働きに出た。 1番下の小生は、寂しく誰もいない家で歌を大声で歌っていたわけである。 神明小学校という田舎の学校ではあったが、戦争のせいで福井大学が36連隊のあった学校の近くに疎開していた。おかげで音楽の先生のたまごが教えに来てくれていた。鼻たらしの弱虫の小生に歌の楽しさを教えてくれたわけだ。 鯖江市になったときの市の歌を小生の声でテープに吹き込んだし、ラジオ番組にも出させてくれた。コンサートにも連れて行ってくれた。声変わりの時は心配し吹奏楽部を勧められ、クラリネットを楽しむことができた。 小生と歌の結びつきは以外にも戦争が仲立してくれたわけだが、それは「教え子を再び戦場に送るまい」とする戦後の民主教育が今日の小生を育ててくれたと思う。今でも50年も前の先生の顔が目に浮かぶ。 あっというまに60年の年月が過ぎた。 戦後のなにもない時代に、何もない田舎で育ったが、戦争への思いは「父を奪い」「貧乏を押し付けた」戦争の実感あるのみである。 この60年間戦争のない時代を生き抜いて来れたことを感謝するとともに、それを保証してくれた日本国憲法第9条を後世に残していくことが小生の務めと思い、今日を生きている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2005年06月14日 16時59分49秒
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