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このブログ、今は昭和20年(1945年)、敗戦直後の時代の出来事を書いています。 9月になって、学校が始まりました。8月に敗戦となって、学校の空気も、級友の顔つきも変わっていました。教授たちも、これからどうなるのか見通しが立たない様子。中には、学生に対する態度がすっかり変わった教員もいました。 京都府立農林専門学校 今までの科目で、教練・武道は廃止。農場実習などやっても、アメリカ軍が来たら、どうせ収穫物はみんな取られてしまうだろう、と言って、「実習はやめだ! 」 と、教授にくってかかる級友もいました。 学生のなかには、2010年12月17日のブログ に書いたような進学制限で、とりあえず農林専門学校へ入っておこうという者もいて、数人が退学して去りました。 菊池秋雄校長は、我々を集めて話しました。 「君たちの中には、戦争中の事情で、農学にあまり興味がないのに、入学した 者もいるだろう。しかし、乗った船だと思って、決めた道を進みなさい。ただし、 言っておく。どんなに時代が変わろうとも、勉強しない者は駄目だよ! 」 9月になって、陸軍士官学校などの軍関係の学校からの編入者が加わり、クラスの人数は2割も多くなりました。編入学希望者はもっと多かったのですが、通達によって、軍関係の学校からの編入者がクラスの2割を超えないよう、指示が出されていました。 これは、軍関係学校からの編入者が、クラスのリーダーシップを執ってしまうのを恐れた措置です。しかし、私たちのクラスでは、軍関係学校からの編入者は、むしろ遠慮がちでした。 級友の多くは、京都府内の者が多かったのですが、編入者を加えて、その範囲は、東は岐阜県、西は広島県・香川県、北は福井県、南は和歌山県に広がりました。 農林専門学校のバッジと帽章 菊池校長の学生に対する態度は、敗戦の前も後も少しも変わりませんでした。そして、自分にも学生にも厳しい人でした。翌年の進級時には、試験の成績、実習時の態度、授業への出席などを合算して席次を公表し、その結果、クラスの1割以上が落第しました。 * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * 校長・菊池秋雄は、青森県出身。専門は果樹園芸学。東京大学卒業後、農林省の果樹試験場でおもに日本梨の研究に取り組み、鳥取県農業試験場々長、京都大学農学部教授を歴任。定年退職後当時の京都府知事・雪沢千代治から農林専門学校設立を委嘱され、校長となりました。 日本梨については、学問的研究のみならず、品種改良も手がけて、いくつもの品種を世に出しました。現在も販売されている新高や、豊水・幸水の親となった菊水は、菊池秋雄が育成した品種です。 菊池校長は、昭和21年に校長職を後進に譲り、非常勤講師として私どもを教えました。そのかたわら、「園芸通論」などの著作を世に出し、昭和26年、70歳で亡くなりました。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
こんにちは!
菊地校長は、立派な方だったんですね! そして、随分、厳しい方だったのですね。 農林専門学校のバッジと帽章、今でも手 元に持っているんですか?? (2011年02月04日 11時36分11秒)
flamenco22さん、いつもメッセージをくださって、ありがとうございます。
農林専門学校のバッジと帽章、今でも手元に持っています。 私は何でも持ちのよい者で、小学校の教科書から証書や賞状・徽章など、何でも引越しのたびに運んで持っています。 (2011年02月04日 14時22分43秒)
こんにちは。戦後のことをよく知っていらっしゃるので、お知恵をかしていただけませんか。
私の父は大正13年生まれで、旧制高校を繰り上げ卒業して、京都大学文学部支那文学科へ進学しました。進学してもすぐに学徒動員して、長崎の高射砲部隊へ配属になりました。原爆の救援活動ののちに、軍隊が解散となり、復学しようと京都大学へ行きました。けれど、復学がかなわなかったということです。 もうなくなりましたが、復学できなかったのは、どんな理由が考えられますか。大陸進出を思想的に支えたから、大学が開かれなかったのでしょうか。教授たちが亡くなられて、開校できなかったのでしょうか。よろしくお願いします。 (2022年11月10日 00時58分30秒) |