『北國新聞 時鐘』
【北國新聞 時鐘】新横綱(しんよこづな)の鶴竜(かくりゅう)を育てた井筒親方(いづつおやかた)の言葉に引かれた。元関脇(せきわけ)の逆鉾(さかほこ)。横綱の夢を果たせなかった師匠(ししょう)は、弟子(でし)に「私のまねをするな」と諭(さと)してきたという。 オレについてこい、と高(たか)みに立って叱咤激励(しったげきれい)する指導者(しどうしゃ)は多いが、オレを反面教師(はんめんきょうし)にしろ、は極(きわ)めて珍(めずら)しかろう。生半可(なまはんか)な覚悟(かくご)では、できないはず。わが身を振り返れば、それが分かる。 サボってばかりだと誰(だれ)かみたいになる、と親に叱(しか)られ、やがて子に対して、そう叱った。アイツみたいになるな、と職場でも小言(こごと)を言ってきた。悪い見本は「誰か」や「アイツ」で、自分のことはちゃっかり棚(たな)に上げる。そうしないと、なめられる。大概(たいがい)、こうである。 良き手本になれるのは、ひと握(にぎ)りの優(すぐ)れた人だろう。角界(かくかい)に限(かぎ)った話ではない。トビがタカを生もうとするなら、「私のまねをするな」という腰(こし)を据(す)えた指導が大切なのに違いない。日本人力士の奮起(ふんき)を促(うなが)す声に、辛口解説(からくちかいせつ)の北(きた)の富士(ふじ)さんが注文(ちゅうもん)していた。「そう。もっと師匠がしっかりしないと」。 近ごろの若い者以上に、近ごろの「年寄(としより)」こそ、しっかりせい。耳が痛いが、思い当たるフシは多々(たた)ある。(3月28日)~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~指導する側(井筒親方)が人物ならば、それを受ける側(新横綱鶴竜)もまた人物なり。何よりそれを評する側(時鐘氏)が人物である。いぶし銀のコラム(コチラ)が今日は一段と際立った。読後の満足感はひとしおである。さて、井筒親方は私より一歳年下で誕生月が同じである。そんなこともあり氏には親近感を覚え「逆鉾」という四股でブイブイやっていたころから贔屓にしていた。甘いマスクから実弟の寺尾関に人気が集まりがちであったが、私は断然逆鉾であった。引退して親方になってからは、向正面に映る氏を認めては、何やら安堵を覚えていた。「私のまねをするな」語録や逸話(武勇伝)の多い氏ではあるが、これは知らなかった。いやはや立派である。一つ年下の氏ではあるが正直に、こいつにはかなわないなぁ、そう思う。このところ巷に人物を見受けることがなく、酒席での人物評もご無沙汰になっていた。しかし人物はここにいた。井筒好昭、大人物である!ちなみに、井筒部屋は現在、在籍力士が四人の小部屋だそうだ。しかしそのうちの一人が横綱というわけだ。なんという効率のよさ、群を抜く費用対効果なのである。こういうのをセンスという。さすがではないか。三人のモンゴル横綱には閉口もするが、井筒親方の人物ぶりを知り大相撲観戦の楽しみが増した。次の場所を指折り数えながら待つことにしよう。ところで時鐘氏はいみじくも喝破せり。近ごろの「年寄」こそ、しっかりせい。「年寄」はまた範を垂れるものとも言いかえられよう。「先ず生きている」だけの『先生』は落語の世界であったが、今、世で言われる先生を見渡す限りその手の輩が大半ではないか・・・先生ではないが、年長者として時折範を垂れることもある我が身である。「しっかりせい」という言葉を忘れることなくいたい、そう思った次第である。