デイ・アフター・デイ(最終回)
「月曜の朝の憂鬱のことをBlue Mondayって言うんだよ」 と教えてくれたのは、親友の由紀子である。 社会人になってからは、毎週月曜の朝が来る度に、このBlue Mondayを思い出し、そして実感する。 はぁ・・・また一週間が始まるのか・・・。 厭々玄関を出ると、足取りも鈍くなる。そんな調子だから普段は決してあり得ない歩道のわずかな段差に躓いたりする。しかも、すれ違う人と肩がぶつかる。 見上げた空は、鉛色をしていて、今にも降り出しそうな空模様なのに、うっかり傘を持って来るのを忘れた。いざとなったらコンビニでビニール傘を買えばいいと思い、そんな行き当たりばったりのせいで、傘立てから溢れた傘が二、三本はある。増え続ける傘を見る度に、「またムダなことしちゃった」と自己嫌悪に陥るのだ。 こう言う負のスパイラルは、どこかで断ち切らねばならない。 麻子は「よし」と、何かを心に決め、力強くマルミツストアーに入って行った。 いつの頃からか、「今日はついてない」と思う日は、いつもと何か違うことをして、流れを変えるようにしている。言わば麻子流の厄払いみたいなものだ。 今朝、ズンズンと真っ先に向かったのは、おにぎりコーナーだ。「ツナマヨ、買ってみるか」 麻子はこれまで、おにぎりの具と言えば鮭か昆布であった。それらが品切れの時は、涙を呑んでおかか、あるいは梅。どんな状況にあっても、ツナマヨを選ぶことはなかった。好きとか嫌いの次元ではない。とにかく生まれてこの方、口にしたことがない味覚への挑戦は、麻子にとって余りに冒険が過ぎたからだ。 大体、ご飯の中にマヨネーズとツナってどうよ? と言う違和感にずっと囚われて来たのだ。 一瞬の躊躇を振り切り、ツナマヨを鷲掴みする。 あとはいつも通り、アロエ入りヨーグルト、それにあったかいお茶をカゴに入れた。 空は薄いベールで日の光を覆ってしまったように、モノトーンな色彩が広がっている。 だがそれは、もうじきやって来る春の気配。 オフィスは、片桐や麻子たちのデスクが集まる島の頭上の照明だけが、ポカンと点いている。普段はエコ対策で、始業ギリギリまでは点けない。おそらく一番乗りの片桐が、余りの暗さにスイッチを入れたのであろう。「おはようございます」「おはよう。そう言えば喉の調子はどうだい?」「おかげさまで随分良くなりました」「それは良かった。ところで・・・」「・・・はい?」「・・・青汁は試してみたかい?」「青汁って・・・ああ!」 麻子は金曜日のことを咄嗟に思い出す。デスクの引き出しに入っていた〈粉末青汁・抹茶風味(六包入り)〉のことを。 だが、誰からの頂き物かも分からず、ましてや片桐からなどとは予想もしていなかったため、バッグにしまい忘れてそのままになっていた。「課長でしたか・・・すみません。結局、飲まずじまいで・・・。でも、ありがとうございます」「いやいや、後から考えたらトンチンカンなことしてしまったなぁと思って。健康維持にはいいかもしれないけど、声を嗄らしている人に青汁はないだろうって・・・申し訳なかったねぇ。なにしろ不肖の僕は、ウチワしか持ってないんだ」「えっ、ウチワ?」「センス(扇子)がない」「ああ・・・! アハハハ・・・」「アハハハ・・・」 今朝、思い切ってツナマヨを買ってみて良かった、と麻子は思う。それが単なる自己暗示だとしても、少なくともその一件で流れが変わったような気がするからだ。「口直しに、これ、聴いてみるかい? 返すのはいつでもいい」 片桐が差し出したのは、一枚のCDだ。ジャケットには『柳家小さん・長屋の花見』とある。 昔、父の傍でイヤと言うほど聴いていた噺なので、演目を見ただけで、自然とまくらがどこからか聴こえて来るのだ。「花見かぁ。おもしろそうだなぁ、行ってみようか」「行くか? 行くんなら俺の名刺やるぞぉ」「おめえの名刺もらってどうすんだ?」「俺の名刺持っていけば、どこの花見だってタダだ」「なにを言ってやがる。おめえの名刺をもらわなくたって花見はタダだ」 麻子は、滲むような温かいものを感じつつ、CDを受け取る。「これがおもしろかったら、まだ他にもたくさん持ってるからいくらでも貸してあげるよ」 目の前の片桐が、いつもとは違った存在に映る。 課長って、独身だったかしら? 麻子は久しぶりのときめきに、思わずはしゃぎたい気持ちを抑えるのに必死だった。 さっきまでモノトーンだった空が、ほんの少し色づいたように見えた。(了)【参考】古典落語 小さん集(柳家小さん・飯島友治編)