27431248 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

《櫻井ジャーナル》

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

キーワードサーチ

▼キーワード検索

カレンダー

サイド自由欄

バックナンバー

2010.01.20
XML
カテゴリ:カテゴリ未分類
 キューバの東に位置しているイスパニオラ島の西部、国名で言うとハイチで大地震があり、多くの犠牲者が出ている。この国は世界で最も貧しい国のひとつで失業率は70%を超すと言われているが、そうした状況を作り出した責任の大半はフランスとアメリカにある。

 1492年にクリストファー・コロンブスが西インド諸島にやって来た当時、この地域にはモンゴロイド系の人々が住んでいた。その後、ハイチはスペインが植民地化、1697年にはフランス領になる。そのフランスはアフリカで多くの人を拉致し、奴隷として連れてきた。

 状況が大きく変化するのは1789年。フランスで革命が起こったのだ。1792年には王権が停止されて共和制が宣言されている。こうした動きは当然、植民地のハイチにも波及してトーサン・ルーベルテュールが率いる奴隷が蜂起し、1804年に独立を宣言することになる。

 アメリカのフェデラリスト党を指導していたひとりで初代財務長官のアレキサンダー・ハミルトンはハイチの独立を支持していたが、ハイチ独立の年に決闘で死亡している。それに対し、初代国務長官で第3代大統領でもあるトーマス・ジェファーソンは奴隷の蜂起がアメリカに波及することを恐れ、「ブリュメール18日」(1799年11月9日)のクーデターで実権を握ったナポレオン・ボナパルトと手を組んで、独立を妨害した。ナポレオンはハイチに軍事介入し、奸計を使ってルーベルテュールを拘束、ヨーロッパに連行したのだ。ルーベルテュールはそこで獄死している。

 しかし、それで独立運動が潰れることはなかった。ジャン・ジャック・デサリーヌが運動を引き継ぎ、1804年に独立を宣言したわけだ。その際、逆襲を恐れてヨーロッパ系の支配者たちを殺害しているのだが、1806年にはデサリーヌ自身が暗殺された。なお、アメリカがハイチを承認したのは1862年、エイブラハム・リンカーン政権のときである。

 勿論、これでアメリカがハイチを自由にしたわけではない。ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されたことで1901年に「棚ぼた」式で大統領となったシオドア・ルーズベルトが海兵隊を1915年にハイチへ侵攻させて占領、この状態はニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが大統領に就任する1934年まで続いた。

 1957年にフランソワ・デュバリエが実権を握ると、彼は秘密警察を使った「恐怖政治」でハイチを支配、71年からは息子のジャン・クロード・デュバリエが独裁者として君臨した。このデュバリエ体制は1986年まで続いている。

 アメリカの権力層を震撼させる事態が生じたのは1990年のこと。解放の神学を唱え、アメリカによる軍事独裁体制を使ったラテン・アメリカ支配に反対するジャン・ベルトランド・アリスティド神父が大統領選挙で当選したのである。その翌年には軍事クーデターが試みられているが、その背後では、アメリカの情報機関が介在していたとも言われている。ちなみに、このときのアメリカ大統領はジョージ・H・W・ブッシュ。

 しかし、1993年に大統領となったビル・クリントンは翌年、ハイチに軍隊を入れる動きを見せる。そこでハイチの軍部は政権を放棄した。ハイチ支配に軍部を必要としなくなったとアメリカ政府は判断したのかもしれないが、2000年に再びアメリカの権力層を懸念させる出来事があった。大統領選でアリスティド神父が復活したのだ。そしてクーデターが実行されてアリスティド政権は倒された。このときのアメリカ大統領はジョージ・W・ブッシュ、つまりH・Wの息子だ。

 今回の地震でアメリカ政府は約1万人の軍隊を派遣、フランスの支援を阻止するような行動に出ている。治安対策?要するにアメリカやハイチの権力層にとって都合の悪い体制が出現しないよう、先手を打ったということだ。





お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2010.01.20 20:18:04



© Rakuten Group, Inc.